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人間理解を教える。だから教師が得意不得意をさらけ出す
子どもにとって一番の教材は先生です。先生の行動、考え、価値観が、子どもの行動、考え、価値観に影響します。
特に小学生は顕著です。中学生になったら、教師以外のロールモデルが存在するようになります。部活の先輩は強烈なモデルとなりますよね。
だから、小学校の先生は「どう価値判断するか」が非常に重要になります。なにせ、自分の生き方がそのまま子どもに影響するのですから。
口では正論を言いながら自分自身はそれと正反対の行動を取ると、子どもたちもそう育ちます。
「仲間はずれをしてはいけないよ!」と言いながら、子どもを差別的に扱うことは、子どもの中に混乱を生じさせます。
というわけで、「言行一致」が求められるところが教師の辛いところだと思います。
そこで、今回のテーマは、
得意不得意
のことです。
得意不得意は、必ずある
私にもあります。私自身は牛乳が嫌いです。特に、ぬるかったりホットだったりすると最悪で、戻しそうになります。
それに、私は運動は苦手です。コンプレックスみたいなものです。
算数も苦手で、掛け算九九の暗記ではクラスで一番できない子でした。漢字テストは0点をとったこともあります。
そんな不得意ばかりな私ですが、逆に得意なこともあります。
まず、絵を描くのが得意です。得意といっても大したことないのですが、少なくとも描くことに苦手意識はないです。
それに、文章を書くのも得意です。これも苦じゃないですね。だからnoteを続けられるんだと思います。
そう、人には得意不得意があります。
まずは、それでいいとセットアップすることが大切なんじゃないかって思うんです。
「先生は、足が遅くて徒競走はいつもビリだったよ。」とか、「先生は漢字のテストを0点をとったことがあるよ。」とクラスの子に話します。
え、そんなことするんですか? 先生のポジションが危うくなるんじゃないですか? そう言われそうですね。
でも、「今はこうして先生をしている。みんなに漢字を教えることだってできる。」
「先生になるために苦手なこともたくさん努力したんだ。」って話すと、子どもたちは「先生って苦手なのに頑張ってすごいなぁ」と思ってくれます。
ここで言いたいのは、「先生はすごいんだぞ!」という自慢じゃなくて、「人は誰しもが得意なこともあれば不得意なこともある」という考え方を子どもたちに理解させたい、ということです。
自分らしく生きることを教える
完璧な人間なぞ存在しないし、学校は「完璧な人間になること」を目指すわけでもありません。私が考える学校とは、自分らしく生きていけるようにするために力をつけるところです。
そうであるならば、苦手なことを一生懸命取り組むことは大切ですが、それ以上に「長所を伸ばす」ことが大切なのではないでしょうか?
長所は「自分らしさ」です。間違いなく。
でも、長所自体も裏を返せば短所になりうるんですよ。
例えば、長所として「足が速い」、というのがあったとします。
その裏を返せば、短所として「足が遅い人の気持ちがわからない」です。
逆に、短所として「足が遅い」というのがあったとします。
その裏を返せば、長所として「足が遅い人の気持ちがわかる」となる。
優しい人は遠慮して自己主張ができない。
自分の考えをはっきり言える人は、人の気持ちを考慮することが苦手。
給食を食べるのが遅い人は、よく噛んで食べて健康を保つ。
何でもそうですが、得意と不得意は表裏一体で、「どの視点から見るか」によって長所にもなるし短所にもなるんです。
だから、「できないことや苦手なことばかりの人が劣っている」のでもなければ、「なんでもできるから優れている」のでもない。
残酷な教師の価値判断
でも、そこに現れるのが教師なんです。
教師が、「この子は優れている」「この子はダメ」というようにレッテルを貼るようにして指導したり声掛けをしたりしていると、そこに一つの価値観が体現されるんです。つまり、「優生思想」です。
優れたものが尊くて、劣ったものを排除する考え方です。
この考え方が、「格差」を生むし、「差別」を生みます。
確かに、事実として優れている、劣っている、というものはあります。
足の速さはタイムとして事実がはっきりしますし、算数の計算能力だってそうです。
でも、教師が「優れていること」にのみフォーカスし、「できることが正しい」「できないことが恥ずかしい」と価値付けしてしまうと、子どもはそういう価値基準で物事を判断するようになります。
それが、差別の温床となるのです。
教師が価値の多様性を認めるスタンス
価値の多様性とは、足が速くてもいいし、足が遅くてもいい、とその価値を認めることです。
足が遅いことが優れていること、ではなくて、足が遅いことは事実として捉えた上で、「足が遅いからダメ」と判断するのではなく、「足が遅いからどうしたら早くなるか」と質問を変化させることが大切です。
そうすることで、ライバルは他者じゃなくて「自分自身」となります。
ライバルは過去の自分。
そうセットアップしましょう。
子どもにもそう価値付けましょう。
他者と比べても、そもそも遺伝子情報も違えば生育環境も違う。そんな土壌が違うなかで、優劣を比べても何も生み出されません。
それに、人間は一つの面だけで価値が判断されるものではありません。そもそも価値を判断すること自体おかしいのであって、多様な人間の性質を1つの尺度で判断することはできないのです。
教師自身が、自分の苦手なことを一つのアイデンティティとして認めると同時に、それを克服することもできるし、自分の得意なことを生かして今を生きていることを伝えられれば…
それが、真に「人間理解」ができた、ということになると考えます。
人間は多面的・多角的な価値を持ち、すべてそれでいい、と子どもたちが肌感覚で学ぶことができれば、教室から「いじめ」も「偏見」もなくなるでしょう。
私は教師の日々の言動から、「1人ひとり、みんないろんな側面があって、それでいいんだよ。」と伝えたいと考えています。
クラスの仲間の意味
クラスには大勢の仲間がいます。だから、私はクラスでこう語ります。
「どんなことにも、得意なものがあれば不得意なものもある。例えば、リレーで足が速い人もいれば、足が遅い人もいる。それに、給食をたくさんおかわりできる人もいれば、そうではない人もいる。」
「そういうときは、クラスみんなで助け合えばいいんだ。助け合えるから、仲間は大切なんだよ。」
「給食が残りそうなら、たくさん食べられる人がおかわりをすればいい。リレーで遅い人がいたら、足の速い人がその人の分も頑張ればいい。掃除が集中できない人がいるなら、その人の分の分担も頑張れる人がやればいい。」
「そうして助け合う中で、お互いの長所を認めて、短所を補い合い、励まし合う。それが仲間のよさだよ」
こう語ります。
そして、最後にオチがあるのですが…(笑)
「でも、一つだけ、自分で頑張らないといけないものがある。それが、宿題だ。宿題だけは誰かが変わりにやってもらえない。それは自分のためにならないからね。だから、宿題だけは自分の力で頑張るんだよ。」
引用:ワンピース(問題があるなら消します。)
ワンピースでルフィもこう言っています。
まとめ
まずは教師が率先して苦手なことを自己開示しましょう。そしてそれを克服する姿を見せたり、語ったりしてあげてください。努力や根性でなんとかなった、という精神論ではなく、「こんな工夫しているよ」とアドバイスする形で。
そして、自分の苦手なことは仲間と助け合うことの尊さを語ってあげてください。きっと友達の見え方が変わってくるはずです。そして、お互いの長所と短所を認め合い、自分自身の長所と短所を認めながら、集団として成長していくんだと思っています。
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