我が子のかわいい・かわいくないが腑に落ちた。
磯野真穂さんの『ダイエット幻想』を読みました。
気付き&思考のきっかけの宝庫本だったのでこれ含めて3つ記事書くよ。
読了後の私の第一感想は「1日1日を一瞬一瞬を大切に生きよう」だった。
ダイエット、拒食症、痩せ願望、ジェンダー論、歴史上での女性の立ち位置くらいは言及されるだろうと思っていたけど、なんかもっと大きくて。
生きるとは、私とは、なんかを考える本だったな。
さて。
本のタイトルからキーワードのひとつになるだろうことは想像に難くない「かわいい」について。
誰が見てもかわいい子犬をどうやったらかわいくなくせるか、
国連でスピーチするエマ・ワトソンをどうやったらかわいくできるか、
の話し合い面白かったのでいつか友達とやりたい。
好きなことが見つからないときに嫌いなことから攻めていく感じに近そうだよね。
かわいい、が幼児性を象徴することは知っていた。
けれどそれが「自分に危害を加えない安心感があること」という条件つきである、という視点が新しく、しかもしかもの大納得じゃない?
さっきまでイライラの対象だった子どもの寝顔にごめんねと声をかけるのは、眠っている我が子が私に危害を加えないから。
※ここでいう危害とは直接的な暴力ではないよ。
食べてほしいごはんを嫌いだと否定する(準備した私が傷つく)、
食べながらテーブルや床を汚す(のちの私の仕事が増える)、
お風呂に入らないと駄々をこねる(私の予定通りにコトを運ばせない)、
同じことを何度も言わせる(私の言葉が届いていない絶望感)、
全然着替えない・寝ない・食べ終わらない・遊び終わらない(私の時間…)
エトセトラ、エトセトラ。
私の子どもは幼児性を持っているどころか100%の幼児なのに「かわいくない」と私が感じてしまうのは、なるほど私に何らかの危害を加える可能性があり安心感がないから。
同じイヤイヤを他人の子や孫にされても「かわいいねえ~」となるのは、その行動が本人にとって危害ではないからだ。
怒ったりイライラするときはなにかに傷ついているから、私は何に傷ついているんだろう?と考えると客観視できる、という話も聞いたことがあるけれど、傷ついている、プラス、この後も傷つけてくるかもしれないという脅威がイライラを継続させるんだろうな。
つまり?
うーん、子どもからの危害を危害と感じないくらい私が強くなる?(ムキ!)
危害を加えないような優しい子どもに育てる?(なんだそれ)
子どもが危害を加えたいと思うような敵意を私が見せない?
これかなあ。
極論を言いますが、いじめられる方にも原因があるんだよ!という言い分にはケースバイケースでほんの一理くらいはあると思っている派です。
無論、いじめをする方が10-0で悪いけどね。
朝から不機嫌でこちらに当たってくる子どもたちを見ていると、不機嫌パワーはんぱねえなと思うこのごろ。
きっと、ちょっとした私の機嫌であったり言葉、接し方が彼女たちにとって心地よいものでないときに、私に危害を加えようという意識がむくむく湧いてくるのかもしれない。
「心地よい」のキーワードも、この本からの学びのひとつ。
次は「私たちは心地よく接せられたい」の話だよ!
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