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心の声が、一瞬だけ漏れた

誰か有名な人。あなたの好きな人に置き換えて考えて。

例えば。

音楽家が、音楽を辞めたらどう思うのだろう。
音楽家が音楽を辞めたら、人はそれをどう思って観るのだろう。

あなたは何を思う。

僕は今は悲しいけど、そこまで悲しくはない。
それは昔も変わらなかった気がする。

それは僕がナンバーガール解散後にナンバーガールを好きになっているからだと思う。

僕の中では物事の解散=終わりでは無いのだ。

誰しも思い出の場所や人物がいると思う。
それがどういうカンケイなのかは別として。特別な存在があると思う。

その場所や人物は、今どうなっている。

無くなって(亡くなって)しまったり、会えなくなったり。
そういう人も多いと僕は思う。そういう人が多いと僕は思う。

あなたが好きだった存在、夢中になっていた事が。
物が変わっていく中(過程)で、あなたはどう変わっていった。

誰かを否定したい話ではない。

その音楽家が音楽が好きでなくなった、その場合もあるだろう。
音楽以外の事で生活を成り立たせる為、自然な流れなのかもしれない。

だから僕は音楽を辞めた音楽家を否定しない。

・・

僕にも変わらず好きな存在があるように、変わろうと変わらなかろうと譲らないものがあるし、譲れない事もある。今でも変わらない存在もある。

僕にとってのナンバーガールだ。

音楽を聴かなくなって、という話から時間が経っているように見えるけど、僕は音楽が今でも変わらず好きだ。

ナンバーガールをここまで聴かなくなっている今でも、僕の世界はナンバーガールだ。

言いたい事は特になかったかもしれないけど、最近は黙る事が良い事と、黙っていたら食い殺されるだけの事の分別が付くように少しはなっているのだと思う。

・・

子供の頃に好きだった事。今でも好きな事。

今は少し距離がある事。
今は、もうやり切った事。

僕が子供の頃に
「好きな事に集中しよう」
「自分に合うやり方で勉強しよう」
と言われても
「僕は遊ぶのが好き」
「僕はこの石(当時、水晶とか鉱物が好きだった)が宝物。大事にして集めていく」
とか言っていたと思う。

言葉は悪いし短絡的な言い方だけど、本当に僕は馬鹿なんだと思う。

大学生くらいになれば自分でも言っていたと思う。

僕の当時の姿、言動から、僕は知的を疑われるレベルだったと思う。

今の僕が当時の僕を振り返っても「子供だったから」「幼かったからな」と言えるかギリギリのところだと思うくらい。わからないけどね。

子供を育てたことが無いから、子供は皆そういう者かもしれないけどね。

・・

音楽が好き、とか、自己表現、創作活動が好きな人の中にも。

好きだから人生を懸ける。自分にはこれしかないと言って、退路を断っているだけ、の人がいると思う。

僕の周りにもいたし、今でもそれに近い人がいる。
そして、退路を断つ仕方が人それぞれだ。

社会から孤立、社会復帰が苦難になる事を率先して、優先して考える人がいるけど、それだと短命な世界だと思う。

短命な世界。

それは人と比べて、社会にいる人、自分の見えている人間たちと比べて、自分は何も知らずに経験もせずに手にするはずの自らの幸せや安心を誤って壊す。過ちで自分に関わる者たちから切られる。

学校に通って、卒業して、就職して、結婚して、家族を持ち、子育てをし、老後を迎える。

これが幸せではない。

ただ人間には、年齢に伴う変化や経験がある。
いつまでも変わらずというのは馬鹿なのだ。

馬鹿と天才は紙一重、とは違う。単純に無知だから馬鹿なのだ。

経験して学ぶ事、経験していく中で気が付いて変わる事。
それを否定したから何も変わらない今の自分がいるだけなのだ。

想像が出来ないという事になるのだろう。
子供の頃と書いたように、子供の僕でも、さすがに18歳くらいになれば現実的な将来を考える。

考えても自分が30、40、50歳。60.70.80歳となる自分の姿を、全く想像すらできないのだ。

それが未熟な子供なのだと僕は思う。
皆、そう言うもんだと思うけどね。

同じ年の友達や知り合い、年上も下でもいい。

その人たちの多くが、見たくない現実かもしれないけど多くの人たちが。

仕事をして成功したり、失敗して大変な事になっている中。
結婚したり離婚をしたり、家事に育児に介護に生活の為に必死になって苦労して、それこそストレスや不安や病気になったりしながらも年と共に変化していく中。

自分だけが、子供の頃から好きだった事。昔から好きで、今も続けている事、今までしてきた事、だけしか物事を見る事も知る事も出来ない。

出来ないと言うより「しない」だけだ。

できない理由が死ぬまで続くなら死ぬまで続ければいい。
それまでの道中で、我に返って冷静に物事や周りを見ることが出来た時。

その時の自分の現実が、鏡に映った自分が。
自分が受け入れられないくらいの老化や落ちぶれ方をしていたら。

・・

僕は思う。

人が、好みも趣味も思想(思考)も変わっていく中。

自分だけがいつまでも今でも、子供のおもちゃだけを大事に抱えて。

鑑に映る自分の違和感にも目を反らして泣いて叫んで。

それが人生だというの。

そういう人たちは、それが自分の生き方だと言うのよ。

哀れ。滑稽ね。

・・

誰かが「かわいそうだ」と言い、仕事をしてくれる(引き受ける)と言っていたそうだけど、何か違う気もする。

可哀そうだからと言って同情で人を動かす事は、僕は良くないと今は知っている。

僕は僕の力で。

声を上げなければ風化して過ぎ去られてしまうようなこの流れを叩き切る。

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