雑記

二年ぶりくらいに電話をかけてきた人。
無視しても良かったけど電話に出る。

少し世間話が続いたと思っていたら
「○○っていうソープに行きたいんやけど、競馬か競艇で3万円増やせれんかな」
「寿司屋の大将に三万貸したんやけど、コロナの助成金で返すっていうけど分からんのよ」

僕は
「あーそれは帰ってきませんよ、そんなもんですよ」
と流した。

そこで前までなら
「飯でも食います?」
と言っていた。
何か面白そうなことはないかな、と、1000円くらいの食べ放題に連れていっていたと思う。

悪意はない。これはただただ僕が寂しいだけだ。

寂しさを紛らわせながら、話の種、自分の仕事に何か繋がる事は無いかと、一日は時間を割いていたと思う。

この人と直接会ったのは、前の前の市議選の時。
同じような事を言われて話を合わせたのを覚えている。

「サンシローで当るんよ」

「○○って選手おらんか」
僕が「わからないですよ」と言うと
「20年前は強かったんよ」と返す。

僕は腹から力が抜けるように
「阿保の極みやな」と思う。

でも、この人が言っている事。
実は先日ブロックした人が、全く同じ事を言っていた。

典型的な、数字当てゲームをしている。
その人は新聞すら読めない。読まないのではなくて読めない人。

僕は所詮は博打なんだから、好きなようにすれば良いと思っている。

予想したところで当る人もいるし当らない人もいる。
当たり前のようだがそれが分からないのが博打依存者。
こういう人は簡単に人にも騙される。

ちなみに僕は同じような過去がある。
僕もギャンブルをよくしていた。

友達や知り合いがいたら、
「これ当りますよ」
「これ絶対良いって」
と必死で教えている気になっていた。

そこで自分が当たり、誰かが外れると、
「僕が言う通りにしないから」
と語気を強めていた。

大昔の話。

僕はそれについてこう思っている。

僕が言った通りにして外れたら、どうしていただろうか。

僕はきっと
「ギャンブルだから外れる時もありますよ!」
と言っていたと思う。絶対に言っていると思う。

他人がどうなろうが関係ないとは思わない。
でもそこで「外れたから責任を取れ」と言われても責任なんて取れない。
そんな筋合いは無いと思うだろう。

だから「自分の言う通りにしろ」あるいは「自分の言う通りにしたら良い」という押し付けは、基本的に間違っている。

それは善意の押し付けですらない。
ただ無知で幼稚な人間の勝手な自己満足の為の強要である。

例え僕がした事、言った事が間違っていなくても、それが偶然でなくても、他人に対して、そういう考え方や言い方をしている時点で間違っていると思う。

とはいえ、これもここ数年で気が付いた事だけど。

「私の言う通りにしたら良いの!!」
と言っていた親に対して、僕が、
「それが本当に正しいんだな、絶対なんだな、じゃあ責任取れ」
と突き付けているから、猶更、理解できる。

この話は、所詮はギャンブルと思う。
けど、こういう人は、先の事も考えられない。
目先の事すら考えられていない。

健常者だけど、ここまでくると異常者、障がい者だ。

・・

・・

その後、珍しく夕方に、余命の人から電話があった。

最近は夕方には体力が無くなっていたはず。
僕は電話に出た。この人の終活は僕が10万で引き受けている。

その人は「パチンコ屋に来て欲しい」と言う。

でも、僕が店の前に行っても出てこない。
仕方がなく中に入ると、その人が大きな声でジャグラーを打っていた。

詳細は書かない、意味が無いから。

その人が初めて目を真っ赤にして、大きな声で、騒いでいた。

別に周りを威圧するとかでは無くて、解りやすく言えば、子供が必死でハシャイデいるような感じ。

僕はすぐに心当たりがあったから、珍しく
「このまま打っていた方が良いですよ、僕は帰ります」

その人は必死で
「100ゲームで辞めるから!」
と言う。

僕に隣で打たないかと自分のコインを僕にくれ、自分の台を打たせる。

いつもと同じことを言う

「な!これで5000円でも銭になるってええやろ、なかなかないで」
「これで飯食えるや普通は出来ないシノギや」

必死で楽しいだろ、凄いだろと言いたいのだろうけど。

最近、特に今回は違った。

こうして人前に出す表現だと悩む。

子供が遊んでいる時の感覚なんだと思う。

好きな遊び、好きなおもちゃで夢中で遊んでいる時の、あの感情の爆発感。
友達にそれを伝えるのに強引に必死。
自分の欲も混ざって、周りも見えていない。

この人は、今まで自分が社会から外れている事を認めたくないが故に、いい歳して必死な所は合ったけど、昨日は違った。

完全に、僕の中では一線を越えている人。
終活の仕事は引き受けない事を決めた。

帰り際

「そんな事言ってたら、○○と一緒ですよ」
「イチャモンつけてくる奴と同じで、ダサいっすよ」

「僕に犯罪行為を仕掛けてきた馬鹿の○○と同じですよ」
と言うと
「あいつ金ないだけやろ」

と言いだした。僕は違和感を感じた。

その人は突然、嗚咽を始めた。

初めてその人のそういう姿を見た。
限界がきているのだと思った。

僕に
「今日あそこで一万や二万勝つより、こうして連れと遊んで騒ぐ方がなんぼかいいよ」
と言う。

そもとも僕はツレじゃない。僕はその人の後輩でもない。
でも、別に言うのは勝手だと今は思っている。

僕の違和感はそこにもあった。
この人は、たまにそう言う事も言うけど、寂しいのだと思う。

僕を何度か「ツレ」と呼んだ。ここまで何度も言うのは珍しい。

僕が帰りたそうにしているのを引き留める時も、露骨に僕を盛り上げようと、楽しませようと必死だった。

その気持ちは分かる。

でも、断言できる。この人は今寂しさの局地。

あと数か月とはいえ、金も減り、頼みの綱の酒も飲めなくなり、限界なのだ。

僕が連れと呼ばれても何も思わないのには、以下の背景がある。

僕も恩人だ、と勝手に人の事を呼んでいるからだ。
僕も友達と、勝手に呼んでいることがあると思うからだ。

相手からすれば別に大したことでもない、そんな事に僕が勝手に恩義や好意を寄せているだけで、逆に僕の事を消したい過去として捉えている人の事ですら僕は一方的に恩人や救ってくれた人と思っている事もあると理解しているからだ。

僕に会いたくない、死んでも会いたくないと思っている人間もいるだろうから、それもこれも含めて、その上で僕も勝手に生きているのだと思う。

想っている。

僕は思う。

大人は相手にしない。
社会人はそんな金や金額で生きてない。
それも分からないのは、馬鹿だからだ。

大人にも社会人にも慣れなかった人間。
何も力を付けずに生きてしまった人間。

確かに僕は30分だけ付き合った。
その間で一万円のお金が増えた。

その人は
「な!」「ええだろ!!」
と言ってくるが、僕は冷めている。

確かに一万円は大きい。

でも、これはギャンブル、博打だ。

ここで釣られるのは馬鹿だ。つられてしまう奴はハマる。
この一万円で僕は美味しいご飯も食べられる、ガソリン代も本当に助かる。

でも、そこで「凄いだろ」と言われても、「アホか」と思っている。

今日は仕方がなく付き合っただけで
「次も来なよ」
と言われても
「馬鹿の相手や出来るか」
と内心思って、相手にしていない。

これが一般的な大人や社会人だ。

何かを手にすれば何かを失う。


金を手にして時間を失う。
簡単な話だと思う。

結婚をすれば自分の時間も減っていく。
けれど、孤独はまぎれる。けどお金も必要になる。
自分が好きなように使える時間もお金も無くなる。
けれど、そこで得るものは、それ以上の価値だと僕は思っている。

博打なんかしている暇はない。
これ以上言っても話は平行線になる。

だから、大人は、そういう人間の相手をしないのだ。

何も背負う物も守るモノも無い。
責任も、経験も無い。

いつまで経っても変われない、成長しない人間は、こうなる。

それに僕は思う。飽きるのだ。
しょうもないゲームに飽きているのだ。

ここで大人と使うのは違和感があるけど、いつまでも同じおもちゃで遊んでいられるほど、馬鹿でも暇でも無いのだ。

話を変える。

僕に恐喝、脅迫、強要、金が無いから目の色変えて金をとろうとしている奴も同じだ。

そいつの中では、その時は金が欲しくて我を忘れていたのかもしれないが、それは関係ない。

馬鹿は一生馬鹿の世界の価値観、方程式でしか物事を考えられない。

餓鬼の頃の不良の感覚。馬鹿の感覚。
反社会的な幼稚な世界線で生きているから、見えていないのだ。

でも思うよ。

それでも死ねない。

そういう人間もいるのが社会だけど、僕は思う。

でも社会ではそう言う人間は通用しない。

僕は「殺すぞ」と言われても、相手に対して、僕を殺せない、殺されないとは思っていない。

ただ、僕に殺す価値があるのか、と考える。

「こいつは馬鹿だから殺すぞといえば、相手がビビると思っているんだろうな」

と思う。

大人になれば分かる。

馬鹿につける薬はない。
馬鹿は死んでも治らない。
誰も相手にされていない。

だから必死なのだ。

ここに出てきた3人の共通は、社会から、他人から、誰からも相手にされていない事。

・・

今日、仕事をサボった。今からサボろうとしている。既に朝の仕事は、二日前に行けない事を伝えている。サボると言うのは、突然キャンセルではなくて、行ける仕事を今こうして行かなかった事。

・・

・・

最近は特に思っている。

人様に見せてしまう日記の内容がこれでは決して良くない。

この話については録音で。

といって、今から一人で食べ放題に行きたいと思っている。

でも、そうやって思い続けて一ヶ月以上、行っていない。
この歳になって食べ放題にいくと次の日から疲れる。

こうやって人間は壊れていったり、間違った選択を続けてしまう。

腰は痛み止めが効くと痛くない。

トラムセットはロキソニンより強い事を思い出した。

でも、痛み止めが切れると、それ以上の痛みになっている。
当然の事だと思う。

自分で改善できることをしろ、というのが真っ当で正しい。
それをせずに痛み止めを飲むことは間違っている。

この痛み止めだけを出した医者は、治療行為をせずに、ゆくゆくは薬漬けで年老いていく道を薦めているだけという事実を僕は見逃さないようにしたい。

このまま慢性化が続いて、痛み止めで調節しながら、腰痛を治す事を自然と諦めて、月に一回の通院客になれば、別にこの病院にとっては何の問題もない事。

先日ブロックした人とは実は病院が被っている。
僕が、プラセンタ注射で通っている病院。

その人はその病院で
「傷が開いたらいけないから、ごろーごろ、しておいてください」
と言われたらしい。
そして、生活保護のその人を三年間寝かせていた。

その人は医者に文句があると言っていたけど、嘘だ。

僕の周りにいた生活保護の連中は、自分は不正な生活保護を貰っていない、なりたくてなった訳ではないと言いたいから、口では真面な事を声を大きくさせる。

これも社会だ。

・・

他人は誰も助けても力にもなってくれない。
当たり前のようだが、他人は他人。
家族になれば他人ではなくなるが、それでも他人。



社会は助けてくれない訳ではない。
どんな屑にも社会保障みたいなものはある。

お金が無くなっても、人間らしい生活、という誤魔化した表現だけど、人間は死ぬことにはならない

けれど、それだけだ。

社会から、他人から、誰からも相手にされなくなっていく。

・・

僕が言っている「人間」たちも、生きている。
けれど、社会から、周りに暮らしている他人から、誰からも相手にされず、見下されたり、同じ人間とすら思われないで生活を、それでも生きている、生活は成り立って出来ている。

・・

二日前、僕は夜中の四時に帰ってきた。

帰り道、孤独。

去年の事への怒り。

更に辛くなりながら車で帰ってきた。

眠れないと思って久しぶりにマイスリーを飲んだ。

パソコンの画面が歪んだ。

「おお、まじか」
「久しぶり、懐いな」

と思って、すぐに寝た。

最近、マイスリーが問題視されている。

そんな事は今に始まった事じゃないと思う。

でも、思い出した。
この視界が変になるのは、マイスリーという薬物の影響だ。

こうして変化や違和感が生まれる、何かしらの影響が出るものには、必ずその反面、反動がある。

僕は10年くらいそんな事を繰り返していた時期を思い出して、

「うまくやれよ、みんな」

と思っている。

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