【読書案内】名前のない女の子
私は、今年になってから、ある物語を3回読んだ。
同じ本を何度も読むことはあるけれど、この短期間に3回も読むことはほとんどない。
3回も読んだのには、理由がある。
その本の校正を依頼されたのだ。
まだ、物語として世に出る前の物語。
出来立てほやほやの物語を私は読んだ。
普段校正を生業をしているわけではないので、私でいいのだろうかと思いつつ、その物語を読みたい気持ちが勝って、手を挙げた。
お仕事として引き受けたからには、3回は読もうと決めた。
20万字ほどあった。
読書が好きな私でも、校正しつつ読むのは、なかなかに厳しい量だった。
それでも、私はこのお仕事をしたいと手を挙げた自分に感謝している。
この物語に真剣に向き合えてよかった。
この物語と出会えてよかった、と思うから。
この物語を3回読み終えた直後は、すぐに推薦文を書いて、みんなに宣伝しようと思っていた。
でも、なかなか書けなかった。
この物語が凄すぎて、いくら書こうとしても、ぐちゃぐちゃになってしまう。
これじゃあ、この物語のよさが全然伝わらないんだ。
みんなに読んでほしいのに。
そうして、負のループに入りそうになっていたけれど。
ちょっと深呼吸してみた。
それで、気づいた。
私は、みんなにこの物語を読んでほしい。
でも、「みんな」に読んでもらうなんてことは、たぶんできない。
だれかひとりにでも届いたらいいんだ。
そう思ったら、少し楽になった。
ゼロさんも、私のプロフィールに「いつも誰かにそっと手紙を書くような、そんなnoteでありたいな。」と書いてくれた。
私は、今日もだれかに手紙を書こう。
「だれか」が、あなただったらうれしいな。
私は、みんなにこの物語を読みたいと思ってもらえる文章は書けないかもしれない。
でも、物語の扉の前で立ちすくんでいる方や、noccoさんのようにこの物語を読んで投げ出されたような気持になってしまった方に、手を差し出すことは、たぶん、できる。
(noccoさんは、ご自分で希望を見出していますが、私の手も添えたい。)
私は、ここであなたを物語へと送り出し、物語から戻ってくるのを待っている。
◇物語への扉
Photo by Alexander Tsang on Unsplash
これは、どの世界にもあてはまりそうな、どこにもない世界の物語。
これは、世界の縮図かもしれないし、架空の物語かもしれない。
はじめは、きっと、こんな世界は知らない、と思うだろう。
でも、読めば読むほど、この知らなかったはずの世界が、私たちの住む世界と隣り合わせにあることがわかってくる。
この物語の世界には、東と西がある。
東には、『私』と『あなた』という概念のない人々が住んでいる。
他者と自己という区別がないというよりも、みんなが自己。みんなが自分だから、いつもみんなにとってのいいことを考えている。
東の人々は、言葉も国もお金も必要としない。
みんなが手を取り合って暮らしている。
西には、私とあなたがあって、言葉も国もお金もある。
すこし乱暴なまとめかたになるが、東側が理想主義、平和主義的で、西側が現実主義的で、好戦的。
正反対のような二つの世界が交差する、その境界に『みずうみを守るひとたち』が暮らしている。
みずうみを守るひとたちは、どちらにも属さないひとではない。
はっきりと東に属する人たち。
この物語の主人公(といっていいか悩むがここでは便宜上こう呼ぶ)は、みずうみを守る人たちのひとり。
東の人だ。
この物語は、東と西のどちらが正しいとか、どちらが優れているという二項対立の物語ではなく、その二つの立場それぞれに共感できるような構造になっている。
でも、おそらく、多くの人が「東の人」に肩入れしてしまうのではないか、とおもう。
主人公が東の人だから、という理由だけではない。
それは、私たちが「西の人」だからだ。
私たちには、言葉もある、お金もある、国もある。
それが当たり前だと思っている。
でも、私たちはたぶん疑っている。
それらは本当に必要なものなのか、と。
私は、紛れもなく西の人だけど、いや、西の人だからこそ、東の人たちに憧れずにはいられないと思う。
「東の人」、「西の人」というのは、架空の世界の呼称のようでもあるけれど、東は共産主義社会、西は資本主義社会という私たちが生きる社会の「東」と「西」そのものであるようにも思える。
この物語は、そんなふうに世界がどんな構造になっているのかを優しく教えてくれる。
いま「教えてくれる」と書いたけれど、説教や教訓じみたものではない。
『星の王子さま』や、『モモ』や『アルケミスト』なんかの隣に並べておきたいような、そんな物語。
それらの物語と似ている訳ではなくて、これは唯一無二の物語だ。
でも、大切なことを、となりに座ってそっと耳打ちしてくれるような語り口がほんのり似ている。
難しいことを難しいまま投げかけるのではなく、私たちの頭で理解できるようにリサイズして、問題を提示してくれる。
『みずうみを守る人たち』は、若い人がえらいんです。
えらいっていうのは、好き勝手わがままにして良いのとは、ちがいます。
えらいっていうのは、みんなのこれからのことを考えて良いってことです。
若くない人たちは、若い人たちをたよりにしています。
若くない人たちは、自分が知っていることや考えたことを、若い人たちに教えます。
それを知った若い人たちが、みんながこれからどうするのかを決めます。
若くない人たちは、若い人たちの言うことを聞きます。
たとえば、みずうみを守る人たちのこんな考え方ひとつとっても、私は唸ってしまう。
あなたは、あなたの街の議会のようすを一度でも見たことがあるだろうか。そこに若い人はどれくらいいる?みんなのこれからのことを決めている人たちは、どんな人たちなのか、あなたは知っている?
そう言われたら、グサッときたり、ムッとしてしまうかもしれない。
でも、この物語の文脈で語られた考え方は、一つの虚構として、こんな世界もあるんだと捉えられる。
と同時に、それが、いまを生きる私たちが抱えている問題そのものなんだと気づかぬ人はいないだろう。
自分たちのおかれている状況を、手のひらにのせて観察できるような、そんな物語なのだ。
この物語には、そんなふうに世界を鮮やかに切り取ってくれる言葉たちが綺羅星のように散りばめられている。
ここでも、少しだけ紹介するが、これは物語というコンテクストでみるからこそ、光り輝くもの。
ぜひあなたに降り注ぐ星々を見つけに行ってほしい。
(引用のあとにも、文章はつづきます)
イヤなものの話は、聞くだけでイヤなものです。
それが自分の知っていることよりも 「正しいことだ」 なんて言われるのは、もっとイヤなことです。
それはなんだか、自分がばかにされているように思えるからです。
自分をばかにしてくる人とは、話なんてしたくありません(本当は、誰もばかになんてしていません。でもそれがわからないんです)。
言葉で話しても、わかってもらえないことは、たくさんあります。
「家族のため」 って理由があれば、人は色んなことをするようです。
何が良いことで何が悪いことか、決めるのはかんたんです。
でもそれは、ただそう決められるだけです。
本当は、良いことも悪いことも、この世界にはないんです。
こわくてこわくて仕方がないときは、怒るんです。
怒れば自分が『強くて大きいもの』になれた気がするからです。
みんなで怒れば、自分たちが『強くて大きくて、良いもの』になった気がするからです。
こわくて怒ることは『良いこと』だって、みんなそんなふうに思うんです。
でもそれで、こわい気持ちがなくなったりは、しません。
だからみんなは、もっともっと怒るんです。
それはもう、誰にも止められません。
みんなは本当は、幸せでいたいだけです。
誰かをこわがらせたいわけじゃないんです。
大切な人と、いっしょにいたいだけです。
好きなことをして、イヤなことをしたくないだけです。
みんなが怒るかもしれないことを、ずっとひみつにしておくことは、とても息苦しいことです。
息苦しいけど、言ったら自分が怒られるかもしれない。
怒られるのがこわいから言えない。
すると、もっと息苦しくなる。
相手から取られるものをなるべく少なくして、相手からなるべくたくさん取る。
それが、国を大きく強く広げていくやり方なんです。
変なことに時間を使ってないで、はやく話をはじめたら良いのに。
そう思うあなたも、もしかしたらいるかもしれません。
でもそれが『文化』ってものです。
『文化』って、他の人が見たら 「変なことに時間を使っているな」 って思うようなことなんです。
でもその人たちにとっては変じゃないし、大事で大切なことなんです。
あなたがもし、変なことに時間を使っている人を見たら、それは 「その人にとっては大切なのかもしれないな」 と考えてみると良いかもしれません。
時間は、自分が思う『大切なこと』のために使いたいものです。
いつもいつでも怒っている人なんていません。
いつも怒っているように見える人だって、やさしい顔をするときもあります。
それが、その人のいちばん下にある顔です。
人は、いちばん下の顔の上に、いくつも顔を乗っけています。
そしていちばん上にある顔が、怒った顔になっていると、その人は 「いつも怒ってる人」 だと言われてしまいます。
いちばん上にある顔のせいで、いちばん下のやさしい顔が見えないからです。
考えることと悩むことは、似ているようで別のことです。
考えるっていうのは、今まで自分が見たり聞いたり考えたりしたことを、足したり引いたり掛けたり割ったりして、今まで自分の中になかったことを思い付くことです。
悩むっていうのは、思い付いたものの中で、どれが良いかを決められないことです。
悩むところまできたら、実はもう考えることは終わっているんです。
あとはどれが良いか、どっちが良いかを決めるだけです。
決めたら、決めたことをやるだけです。
でもどれが良いか決められないから、まだ考えてるふりをします。
だって考えるのが終わったら、決めなくちゃいけません。
何かを決めるのは、こわいことです。
この物語を読むのには、たくさんの時間を使う。
物語ではなく、こんなふうに大切な部分だけを抜き出して伝える方法もある。
でも、それでは伝わらないことがきっとある。
この物語には、「言葉では伝えられないことが多くある」ということが繰り返し語られる。
私が、この物語を読んでどう感じているのかも、なかなか言葉では表現できない。
感動しているのはもちろん、自分たちの世界や未来を思い、温かい気持ちにも、悲しい気持ちにもなった。
この物語がどうか多くの人に届いてほしいと思う一方で、Howaさんの才能に少し(いや、かなり)嫉妬してしまうこともあった。
それでも、やっぱりこの物語がたくさんの人に届いてほしい。
あなたの大切な時間を使ってもらうことになるけれど。
後悔はしない、と思う。
もし、読み終わって、投げ出されたような気持になったら、ここに戻ってきて。
私が受け止める。
受け止めきれるかは、わからないけれど。
一つの出口は用意できると思うから。
さぁ、いってらっしゃい。
いつでも、ここで待ってます。
ここから先は、物語を読み終えてから、読むことをお勧めします。
でも、物語の途中で、苦しくなったり、つらくなったときに立ち寄る場所としてもご利用ください。
◇物語からの出口
Photo by Denny Müller on Unsplash
まずは、心落ち着けられるようなハーブティーを用意しましょう。
Photo by Loverna Journey on Unsplash
そして。
おかえりなさい。
私は、自分の気持ちを思うがままに書きたいときは、ダ・デアル体で書き、だれかにそっと語りかけたいときはデス・マス体で書くことが多いです。
ここから先は、そっと語りかけたい気分なので、デス・マス体で書きます。
実は、私が、この物語を読み始めたとき、ちょっと読みにくいな、と思いました。
たくさんのよくわからない登場人物が出てきて、いろんな設定もあって。
なかなか画面上で長い文章を読むことに慣れていないので、頭にすっと入ってこない。
私は、そこで声に出して読み始めました。
この物語は、はじめから、朗読することを想定されているので、難しい言葉はほとんど使われていないですし、読みやすいように書かれています。
音読していたら、優しく胸に響いてきました。
ちょっと、読みにくいなと思ったら、まずは声に出して読んでみてもよいかもしれません。
それから、物語をただ受け身で聞いているとなかなか設定が頭に入ってこないかもしれません。
私は展覧会を見るときにも、小さなメモ帳を片手に歩きますが、この本もそんなメモ帳があると、物語を能動的に楽しめると思います。
たぶん序盤を乗り越えれば、メモ帳がなくとも、頭の中で地図が描けるようになってきます。
ここに私が描いた地図を載せようかとも思ったのですが、たぶん自分で描きながら読み進めたほうが探検しているようで、面白いかな。
さて、物語の途中で引き返してきた方へのご案内はこれくらいにして、物語を読み終えた方にお話ししましょう。
先に結末を知りたくない方は、物語に引き返してくださいね。
この物語は、あまりにも悲しい終わり方を迎えます。
みずうみを守る人たちの想いは届かない。
みんな死んでしまった。
ヒヅメは、逃げた。
でも、私は、この物語の結末に安堵しました。
それは、なぜでしょう。
東の人の想いが通じたら、それでめでたし、という物語であってほしくないなと読み進めながら思っていたからです。
東の人が生きていく方法は、人間の体に動物を混ぜる(などの)方法です。
もし、この物語の中で東の人の思いが通じて、みんなが東の人のように生きましょうとこの物語が終わったら、どうでしょう。
きっとその方が、私たちはこの物語から投げ出されてしまうのではないでしょうか。
だって、私たちは西の人。
動物の体を混ぜるなんて、この現実世界ではできません。
そうじゃなくとも、私たちは国もお金もない世界を望むことなんてできないのですから。
東の人が正しいという物語のエンドを迎えても、私たちは東の人になる方法を知らないのです。
でも、私たちはこの物語の最後で知ります。
東の人も、西の人に憧れていることに。
物語の終焉にヒヅメはわたしという言葉をつかって自分の思いを吐き出します。
みんなのことを考えることは、とても美しいことです。
でも、みんなのこと、おおきなことを考えることだけが正しいことではないのです。
人の中には、それぞれの欲望があります。
その声に耳を塞いでいたら、きっといつかヒヅメのように爆発してしまう。
私たちが生きる世界は、ほぼ完全に西の世界です。
東の人たちのようには生きられないからでしょう。
しかし、私は、西の人ですが、西の人が正しいんだとはなかなか思えません。
考えることを誰かに任せて、意味のない殺し合いをして、生まれながらに格差のある社会。
そんな社会のことは嫌だと思う。
東の世界は完璧ではなく、西の世界も嫌だ。
でも、北や南には、もう道はない。
そんな救いのなさには、目を背けたくなります。
けれど、本当にこの物語には救いが残されていないのでしょうか。
私には、いくつもの救いが残されているように感じるのです。
みずうみを守る人たちの思いは、東の人には通じませんでした。
ところが、東の人である『赤い水草』は東の人と手をつないでいます。
もとから彼はこの国に属していなかったひとだからなのかもしれませんが、東の人の中にも話をきけばわかってくれる人はいるのです。
手をつなぐことがきもちいいことだと、『赤い水草』は言っています。
『お米』のように、敵対視していても、話を聞こうとしてくれる人もいます。
今回は、たまたまうまくいかなかったけれど、うまくいく可能性がゼロになったわけではありません。
みずうみを守る人たちの村に残っていた人は、まだ生きています。
大きな戦いが終わっても、世界は続いていくのです。
まだ、手をつなげるチャンスは残されています。
その方法が明示されていないように思うかもしれません。
私にも、その方法は見つかりませんでしたが、ヒントはこの物語の中に残されているように思います。
「そうさ。そのときどうするかを決めるのは、そのとき生きてる人たちだ。まだ起きてもいない、起こるかどうかもわからないことを、今の人が考える必要なんてない。でも今の人が考えなくちゃいけない問題は、昔の人たちの中から出てくることもある。昔の人たちが決められないまま、今の人たちで考えなくちゃいけなくなった問題。それが未来だ。未来は 「まだ来ない」 って意味じゃない。 「まだ出来てない」 って意味なんだ。 「まだ出来ていない」 ことを今(わたしたちで)終わらせるのか、(わたしたちの)子供たちにやってもらうのか。それを今決めるのが、未来を考えるってことだ。 「まだ出来てない」 は放っておいたら、考えるのがどんどんむずかしくなる。昔の人の 「まだ出来ない」 は、今の人でも 「まだ出来ない」 ことかもしれない。でも少しなら今考えておくことが出来る。そして 「考えたけどダメだった。でもこれとこれはまちがいだってわかったから、そこから先を考えてみてね」 って言って、子供たちにたのむことなら出来る。 「まだ出来ない」 を 「まだまだ出来ない」 にして渡すのか、 「もうすぐ出来る」 にして渡すのか。それを決めるのは今の人にしか出来ないことだ。今の人にしか出来ないことをやらないんだったらそれは、今を生きてるだけの昔の人だ」
いまの世界で起きていることを私たちは、この物語をとおして知りました。
いまのままでは、きっといつか奪い合いになって、殺しあって世界は終わりを迎えることになるでしょう。
でも、そのいつかは、明日ではないから。
私たちは遠い未来のことに目を背けて生きています。
私たちには、解決できないから。
考えずに、ただ悩んでいるのです。
たぶん、私たちの世代で解決できることではないでしょう。
「動物の体を混ぜる」というのは、解決手段の一つのたとえで、それがひどく時間のかかることで、効果が表れるのに幾世代もかかることを指しているのだと思います。
エネルギー問題や、環境汚染、食糧危機など、私たちの生きる世界には、解決に時間のかかる問題が山積みです。
でも、私たちは、「悩む」ことをやめて、「考える」ところから始めてみよう。
そして、時間のかかる問題に少しずつでいいから取り組んでいく。
それは、あまりにも当たり前のことに思えるかもしれませんが、たぶんこの物語の結末を、悲しいと思った人だからこそできることなのです。
私は、読んでいる間、この物語の語り手はいったい誰なのだろうと思っていました。
Howaさん自身のようにも思えますが、私には未来の『名前のない女の子』のようにも思えるのです。
この語り手は、どちらにも中立な立場で語っていますが、どちらかというと東の人に近い考え方をしているように思えます。
私は、この物語が、『名前のない女の子』もしくはみずうみを守る人たち(村に残っていた人)の生き残りや子孫が語っているのかもしれないな、と思いました。
手をつなぎにいくのは、失敗してしまったから。
私たち西の人が未来のことを考えられるように。
この物語を届けようとしてくれているのかな、と。
そう考えると、この物語は、東の人から私たち西の人へのギフトのようにも思えます。
東の人と手をつなぐかどうかが、読者に委ねられているように思うのです。
と、まぁ、私なりに、この物語の出口を用意してみたわけですが。
Howaさんの意図とは全く異なるかもしれませんし、あなたの考えとも違うかもしれません。
でも、Howaさん自身がこの物語をアレンジしてみてほしいと語っていらっしゃるので、私は、私の思った読み方で楽しませていただいています。
この物語を読んだあなたの感想も、お待ちしておりますね。
ここまで、読んでくださったあなたへ。
私と手をつないでくれて、ありがとうございます。