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プレバトを見ながら自分の詩のことを考る日々

テレビのプレバトは始まってもう10年以上だそうだ。
たぶんほとんど見ている。
いろいろ淘汰されて、今は何種類かの「美術作品」と
俳句だけが残っている。

もちろんずっとぼんやりぼーっと見ていた自覚はある。
急にうまくなる人がいて
「勉強したねー」とか言われるのをちょっとうらやましいと思っていたりした。

詩の勉強はやっと三年くらい。
仕事を退職したときに、なぜ俳句を選ばなかったか というと
俳句では言い足りないことがある と思っていたからだ。

でも今になって、通じるものがとてもある と真剣に見ている。
まずは勉強という事。
俳句においてはまずは歳時記の読み込みであろう。
歳時記には、その季語を使った俳句が載せられていて
詳しい歳時記になれば、それに関連した故事や伝承なども載っているだろう。それはたぶん楽しい勉強なのだ。

それから描写する事。それも過不足なくということ。
    語順 
    言いたいことは何かを意識する事

これは詩と通じる事である。
過不足なくということを意識するようになってから
褒められることが増えてきたのだった。


勉強会のメンバーはほとんどが「永世名人」級なのである。
私が「才能無し」や「凡人」の詩しか書けない時には
やさしい沈黙で流してくださった。
少し上達したときに「良くなってるよ」と言っていただいた。
それも「上からみたいでごめんなさい」という言葉もついて。

最近は、良い詩だ というつぶやきが聞こえるようになった。
個人的に「好きな詩だ」と言ってもらえたこともある。
特待生になれたかな 昇級したのかな という気になるわけである。
小さい奴である。
俳句もそうだけれど、詩も、題材や自分の体験の切り取り方が
上手く合致して、良いね と言われる作品が書けることもある。


この前の詩の読書会の時くらいの真剣さで、詩集を読んだりしなくてはならないが。真面目になり切れない自分である。

見取り稽古ではないけれど、勉強会参加がそういう面を持っているようだ。今でも、「密度の濃い詩行」とか言われてもよくわからない。
単純に「すごい」とか思うだけである。語彙の貧困。


ただまぁ 昔から、もっと丁寧に生きなくてはなぁ とは思っていたのだ。そういうことを思い出させ、意識させるものと関わってしまった。
すぐに辞めちゃう人かと思っていたと言われたこともある。
自分の書けなさに絶望して辞めるのはありえたなぁ と思う。
今でもかなりのプレッシャーはあるのだ。

辞めたいと思わないことが、「縁」ということかなぁと思う。




   


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nobuko fj
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