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カメラと古本が好きなおっさんです

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光る藤原氏宇治陵へ6〜道長はどこに眠っているの?

宇治陵の聖地巡礼続きです。 今回は道長の墓所であるという伝承のある宇治陵32号を訪ねてみます。 宇治陵32号の隣には33号があります。 道長のお墓は今の木幡小学校よりも南、東宇治高校よりも西にある宇治陵32号であるといわれています。住宅地の中にポツンと存在していて小さな塚です。摂関政治の全盛を極めた道長さんの墓所としてはこじんまりとした感じがしますね。 今は廃絶してなくなっていますが、道長が藤原氏一族の菩提寺として造営した浄妙寺が木幡にありました。 長男の頼通が道長の墓参

    • 光る藤原氏宇治陵へ5

      宇治陵聖地巡礼の続きです。 JR木幡駅前からの坂道を東にあがっていくと松殿山荘という敷地にたどりつきます。 ここは平安時代末期の関白藤原(松殿)基房の別荘地跡で現在は松殿山荘茶道会さんの敷地となっています。この敷地内に宇治陵30号と31号があります。 特別公開時以外は松殿山荘は会員以外は非公開なので今回はここでUターン。おそらく松殿基房本人か近い人の墓所ではないでしょうか。 ちなみに松殿基房は平資盛(平清盛の孫、平重盛の息子)の牛車と殿下乗り合い事件を起こして平清盛や重盛か

      • 光る藤原氏宇治陵へ4

        宇治陵聖地巡礼の続きです。 宇治陵23号以降は5号~20号のある所から少し北にあります。 宇治陵23号、28号、29号はJR木幡駅方向へ北へ戻って、御陵参道という石碑のある奈良街道の三叉路の坂をどんどん上がっていきます。 住宅地の奥に23号、28号、29号が3つならんでいます。  宇治陵26号と27号は先ほどの23号、28号、29号の南隣の住宅地の中にあります。この奥にも24号と25号もありますが、民家の間の路地を進むことになるので今回は24号、25号の訪問は断念します。

        • 光る藤原氏宇治陵へ3

          宇治陵の聖地巡礼の続きです。宇治陵5号~13号の少し東に宇治陵15号~20号がまとまっています。 宇治陵15号はちょっとした丘の上にあります。元々傾斜地のうえにあるんですけど、とどめを刺すかのように小山があって急斜面の参道が待ち構えます。16号は住宅街の角地にあるんですが石段と植栽に囲まれてて一見民家のお庭かとまちがえそうです。 宇治陵17号と18号は児童公園の中にあります。というか元々は宇治陵のあるところに児童公園ができたんですね。町内の子供を見守る藤原氏の御陵なのです

          光る藤原氏宇治陵へ2

          宇治陵巡礼の続きです。 宇治陵1号~4号から奈良街道を数区画南下した消防署の裏手の岡に宇治陵5号~13号がまとまってあります。 宇治陵5号と6号は消防署の裏に隣り合わせであります。民家の間になる狭い路地を通るので少し勇気がいりました。 宇治陵7号から10号は道路に面しています。7号だけ道路の向かいの児童公園内にありますが、8~10号は数メートル間隔で並ぶのでお参りしやすいです。 続く宇治陵11~13号は10号のある道路から細い路地を通って奥へ奥へと進んでお参りします。ぱ

          光る藤原氏宇治陵へ2

          光る藤原氏宇治陵へ1

          大河ドラマ便乗ネタです。 平安時代に摂政、関白をはじめ左大臣など重要ポストを席巻してかつ娘を入内させ摂関政治の全盛期を築いた藤原氏の方々、実はお墓が宇治市の木幡一帯にあります。 明治になって藤原氏のお墓とされるものが1号から37号まで番号がふられて指定されます。まとめて宇治陵と呼ばれてます。 でも道長の時代には既にあるお墓も荒れてたくらいて、どのお墓に誰が眠っているかは今も判っていません。かつ同じ所にある古墳時代のものも一緒に藤原氏のお墓扱いで明治に指定されたので、古墳と藤

          光る藤原氏宇治陵へ1

          電電公社の二つの電気通信学園

          祖父の古写真帖からの記事です。 戦後、逓信省は郵政省と電気通信省(後の日本電信電話公社)に別れました。山科郵便局も電信電話は電話局として分離します。祖父はこの時郵便局から電話局へと異動します。 電話局勤務となってから電電公社の社内学校の電気通信学園に入校します。 まずは京都電気通信学園に入校。卒業が昭和32年(1957)7月とわかっていますが、入校の日は不明です。ここは電気通信の中等教育に該当する学校らしく、後に触れます鈴鹿の電気通信学園は高等部なので教育内容が異なるようで

          電電公社の二つの電気通信学園

          戦前の山科郵便局の古写真-4

          祖父の古写真帖からのシリーズです。 今回も山科郵便局の局舎から離れたところで撮られてます。 前回もそうですが今回の写真も時局柄、戦争を色濃く反映していきます。 伊勢神宮内宮、おそらく宇治橋を渡ったところで撮られたようです。昭和12年に制定された国民精神総動員運動によって逓信職員(戦時中までは郵便局は郵便、貯金、保険、国債だけでなく電信電話も取り扱います)が伊勢神宮に集められます。 こちらも伊勢神宮内宮で撮影されてます。宇治橋の鳥居の前です。画面奥に左側に事務所、鳥居、宇治

          戦前の山科郵便局の古写真-4

          戦前の山科郵便局の古写真-3

          生前の祖父の写真帖からの記事その3です。 前回、山科郵便局で戦地に赴く局員さんの集合写真を紹介しましたが、局舎で撮られた以外に神社で撮られた写真が数点ありました。奥の建物には注連縄と紙垂(しで)が見えることからお寺ではなく神社だと考えられます。 応召される二人の局員さんの名前と撮られた日付は写真帖に記載されていましたが場所が分かりません。(お名前は画像処理で隠しています)  写真が撮られた頃には山科郵便局は国鉄山科駅前にあった頃なので、局舎からそう遠くない神社で撮られたもの

          戦前の山科郵便局の古写真-3

          戦前の山科郵便局の古写真-2

          前回に引き続き祖父の写真帖からです。 前回は昭和2年(1927年)頃の京阪四宮駅前にあった頃の写真でしたが、今回の写真は国鉄山科駅に局舎が移転した頃のものです。こちらは昭和13年(1938年)11月に撮影されたものです。四宮時代と比べて局舎が大きくなっています。 局舎前の道路、三条通はコンクリート舗装されていて白く写っています。アスファルト舗装ではないのです。子供の頃、昭和50年代でもまだコンクリートの舗装のままでバスに乗っていると舗装の継ぎ目を乗り越えるときにバスがよく

          戦前の山科郵便局の古写真-2

          戦前の山科郵便局の古写真-1

          生前の祖父の写真帖からの一枚です。 生前の祖父は逓信省時代の郵便局に勤めていました。これは昭和最初期の京都の山科郵便局の写真です。 祖父が勤続10年の際に撮られたもので、祖父の年齢から割り出すと昭和2年(1927年)から昭和3年(1928年)頃と思われます。 逓信省時代なので郵便の配達、貯金、保険以外に電信電話の業務や国債の取り扱いもしていたと祖父が述懐していました。背後に国債の募集ポスターが貼ってありますので国債の募集時期からもう少し正確な撮影時期がわかるかもしれません。

          戦前の山科郵便局の古写真-1

          七条大橋の謎の遺構

          少し前に鴨川あたりをぶらぶらして見つけた謎の遺構についてお話しします。 鴨川にかかる七条大橋、1913年(大正2年)に竣工した鉄筋コンクリートの橋で鴨川にかかる橋の中でも現役最古のものです。 昭和の初めの鴨川の大洪水にも耐えた橋です。 この橋なかなかのものなのですけど今回のテーマは七条大橋本体ではありません。 鴨川左岸、橋の東詰の北側に謎のレンガ造りの柱みたいなのがあります。 橋の北側に突然でーんと現れた謎のレンガの柱。 銘板も何もなく点検扉とかもありません。 左岸の

          七条大橋の謎の遺構

          中原中也記念館訪問記

          久々の投稿になります。 前回、中原中也の京都時代の集合写真の記事を投稿しました。 今回、山口の湯田温泉にある中原中也の生家跡に建つ中原中也記念館を訪問してみました。 記念館と岩波文庫版の中原中也詩集の2ショット! 中学時代に買った本だから活字が小さくてこの歳では読むのが辛いです!昭和の文庫本だから今よりも小さな活字なのです。新幹線の中で読み直してみましたが視力の耐久限界を痛感しました。 幾時代かがありまして 小さい活字が読みにくい 幾時代かありまして 手元の活字が読みにく

          中原中也記念館訪問記

          京都時代の中原中也の集合写真考察-(おまけ)

          古写真の撮影地の考察のおまけです。 古写真の裏には 「記念にと思う心よあるものか!思い出は淋しきに 思い出は悲しきに 1924.2.1」 と書き込んであるとのことです。 この記事を投稿した2024年年頭は写真を撮られてから100年なのですね。 この写真の撮影場所の京都霊山護国神社の参道はずっと坂を登らなくてはいけません。今は参道は舗装されてますが、昭和初期に撮られた参道の古写真を見ると階段が続いています。 坂道を延々と歩いてたどり着く境内、維新志士の墓地はさらに急斜面の上

          京都時代の中原中也の集合写真考察-(おまけ)

          京都時代の中原中也の集合写真考察-9

          長々と京都時代の中原中也の集合写真の考察を書きつらねてまいりました。最後までお読みいただきありがとうございます。 調査に当たりご助言を賜った立命館中学校・高等学校元教諭の西田俊博先生に深く感謝いたします。 中原中也について探求しておられた立命館中学校・高等学校元校長、元副校長の故橋本二三男先生に本調査結果を捧げます 参考文献・参考サイト ・「中原中也詩集」 編 : 大岡正平 (岩波文庫) ・「中原中也全集」 編:大岡正平・中村稔・吉田凞生(角川書店) ・「新潮日本文学ア

          京都時代の中原中也の集合写真考察-9

          京都時代の中原中也の集合写真考察-8

          古写真の撮影地の考察の続きです。 写真1を見ていて生徒たちが斜面を使って並んだにしては各列が横に整然と並んでいることに違和感を覚えました。ただの斜面に生徒が並ぶ場合、立つ位置がバラバラになり横方向がきれいに一列に並ぶのは困難です。何か階段状のものに座ったり立って並んでいると考えられます。 そこでもう一度写真が撮られた頃と近い時期の地図を見ます。 木戸孝允公神道碑の北西に階段があることがわかります。この階段をひな壇代わりにして並んだのではないかと推定しました。この階段を使えば

          京都時代の中原中也の集合写真考察-8