【三国志の話】【倭人伝 追記】後編の補足、および自作資料の有償配布
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後編のおさらい
前回の記事「邪馬台国は畿内にあり、卑弥呼は九州にいた!?」は、筆者の記事の中では長文でした。
「そうだ、長すぎるぞ!」と感じた方には、申し訳ありませんでした。
しかし、筆者は逆に短すぎたと考えます。
4千字を目標にしたため、書ききれなかった部分が多いのです。
そのため、今回の記事で補足をすることにしました。
後編の補足
張政が帰国した時期
後編の前半で筆者は、このように書きました。
張政の帰国時期が250年前後という想定は、卑弥呼の死とリンクしています。
『梁書』『北史』に「正始中、卑弥呼死す」と書かれているので、卑弥呼は、魏の詔書を受け取った正始八(247)年から同十(249)年までに死んだことになる。
張政はそれからしばらく倭国にいて、250年前後に帰国したという想定です。
魏の使者は女王国に行ったのか
「魏の使者(梯儁や張政ら)は、伊都国までしか行っていない」という説があります。
倭人伝には伊都国が「(帯方)郡の使者がつねに駐まるところ」と書いてあることや、「"至る"ではなく"到る"と書いてある」ことから、「魏の使者の目的地は伊都国だった」とする説です。
そこから、「伊都国から先の方位・距離は伊都国を基準とすべき」という説や、「伊都国から先の方位・距離はあてにならない」とする説などに派生します。(伊都国=女王国とする説すらあるようです)
では、魏の使者は実際に伊都国から先にも行ったのかどうか。
筆者は、魏の使者の目的には倭国の現地調査が含まれていただろうと考えるので、行ったと考えます。伊都国には、大使館のような常駐所があった。
ただし、大和氏の説を補強する目的ならば、実はどちらでも構いません。
倭人伝の方位と距離が、現代の科学で測定した結果と一致するかどうかは重要ではないのです。
倭人伝からは、少なくとも当時の中国人が「距離を里の単位で記述して、方角も併記する」という文化であったことが分かる。
陸路だけではなく海路でも、「句邪韓国から対海国まで千余里」「対海国から一大国まで一千余里」「一大国から末盧国まで千余里」と、里の単位で書いています。
それに対して不弥国から先は、「不弥国から投馬国は水行二十日」「投馬国から邪馬台国は水行十日陸行一月」と、日数で書いてある。
これは、倭人の文化だと想定されます。
(『隋書』に「夷人は里数を知らず、但計るに日を以てす」とあり、数百年後の7世紀でも同じだったようです。)
いずれにせよ、倭人伝の「不弥国まで」と「不弥国から先」では情報ソースが違うことが分かればよい。
後編で筆者がこのように書いたのは、上記のような理由です。
ただしその上で、それぞれの国がどこにあるかを特定する目的では、現代の単位に正確に換算できた方が良いことは確かです。
台与と晋の関係
後編のまとめで、筆者はこのように書きました。
いろいろの例として、前後編で数多く引用したこの書籍の共著者、黒岩重吾氏と大和岩雄氏の二説を紹介します。
黒岩氏の説
黒岩氏は、邪馬台国は九州にあったと考え、畿内に遷ったのは倭人伝よりあとの古墳時代だと想定しています。
卑弥呼の代に九州に都を置いたのは、魏との連携を図るための玄関口だったからとのことです。
台与の代には、何度か魏に朝貢したのち、晋の建国直後の泰始二(266)年にはさっそく祝賀の使節を送ったものの、晋の態度は冷たかったようです。
「晋書」倭人伝の記述の少なさを見れば分かる。
そして、晋の支援が期待できないと判断して、出雲と吉備が防波堤となってくれる新天地(つまり、ヤマト)に遷った。
大和氏の説
大和氏は「卑弥呼は狗奴国との戦いで戦死した」という説を採用しますから、まず倭国は戦いに敗れて東方へ逃れたと考える。
その結果、倭人伝にも書いてあるように、九州からさらに陸行一月と水行一月かかるようになりました。
単純に物理的な距離の遠さが、晋との外交関係に影響したというのが、大和氏の説です。
まとめると、「晋が倭国に冷たくなったから、倭国が東方に移動した」のか、「倭国が東方に移動した結果、晋との関係が冷たくなった」のかという、「鶏が先か、卵が先か」の話です。
畿内説・九州説との関連
後編で筆者は、次のような主張を繰り返しました。
倭人伝という文献だけではなく、考古学の面でもそのように言えるのでしょうか。
九州説の論者は、畿内説について「纏向遺跡は大きな祭祀場であって、そこには倭人伝が描くような城柵や集落の要素が見えない。しかも、箸墓古墳は三世紀後半以降の古墳なので卑弥呼の墓ではない。」などと批判します。
それらは、例えば以下のように考えて受け入れることができます。
邪馬台国は七万余戸の大都市である。集落などを含む全貌まだ未発掘なので、纏向には祭祀機能のみがあることはおかしくない。そして箸墓古墳は、卑弥呼ではなく台与の墓である。
畿内説の論者は、九州説について「九州にある遺跡はどれも小規模で、吉野ヶ里遺跡ですら七万戸の大都市には見えない。しかも、九州にあるのであれば、不弥国から水行・陸行で何十日もかかるはずがない。」などと批判します。
それらも、例えば以下のように考えて受け入れることができます。
九州にあったのは女王国であって、七万余戸の邪馬台国ではない。当時は矛・盾・木弓しか持たず、狗奴国に苦戦して魏に助けを求めるような小国だった。そして邪馬台国は畿内にあったのだから、九州から遠いのは当然である。
自作資料の有償配布
以下内容の11ページのPDF資料を作成しました。下の有料部分を購入していただくことで、ダウンロードすることができます。
地図と年表 1ページ
「魏志倭人伝」全文(女王国と邪馬台国に関する記述をハイライトしたもの) 8ページ
倭人伝全文の中から「女王国と邪馬台国に関する記述のみ」を抜粋したもの 1ページ
参考文献 1ページ
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