【書評】C.G.ユング『赤の書』(p420まで:後に追記します)
著者プロフィール:
抜こう作用:元オンラインゲーマー、人狼Jというゲームで活動。人狼ゲームの戦術論をnoteに投稿したのがきっかけで、執筆活動を始める。月15冊程度本を読む読書家。書評、コラムなどをnoteに投稿。独特の筆致、アーティスティックな記号論理、衒学趣味が持ち味。大学生。ASD。IQ117。
────────────────────
ユング『赤の書』を読んでいる。『赤の書』は、ユングが死ぬまで出版を差し止めていた本で、彼のイメージ世界における出来事と、それの解釈が書かれている。友人には見せていたようだが、その内容があまりに神話的、もっというと精神病的なので、彼は公開を躊躇っていた。もっとも、彼はこれを書いている間、昼は自分の仕事をしっかりこなしており、それは精神病ではなかった根拠として主張されている。
全体が彼のイメージ世界でのエピソードなので、解釈が非常に難しい。ユングの解釈と思われる箇所もあるが、それも難しい。総合的には、狂気とも思われる無意識の世界に入っていき、それを外部化する事が重要だ、といった具合だろうか。これは、河合隼雄先生の『イメージの心理学』という過去に読んだ本から引っ張ってきた解釈かもしれないが。ともかく、この外部化自体、正気を保つ道で、悟り的なものからは遠いような気はする。深く内的世界に入っていくのではなく、あくまでファンタジーとして楽しむ程度になっているように思える。
主張されている事は、「悪魔的なものを受け入れる」事で、個性化が完成する、といった感じ。この手の思想は受け付けないので、解釈(≒精読)自体躊躇っている。とはいえ、僕がキリスト教に至った過程も、このような過程だったのか?個人的には、僕の「荒野」は、悪魔的なもの(というか悪魔そのもの)と徹底的に闘った記憶があるのだが。体の半分が悪魔で、半分が神、これを単なる一元論としていいのだろうか?一元論に至って、その後に、ようやく自発的な二元論(強制的でない律法遵守)が出来ると思うのだが。少なくとも、ブッダは悟った後も悪魔パーピマンに誘惑を受け、それを斥けた。「悪魔と和解してはいけない、滅ぼしなさい」、これが聖者の必要条件では。
なんにせよ、彼のイメージ世界において、悪魔的なものと聖的なもの、これらが同一であるように指し示されたからといって、実際にそうである事はない。それは、「世界」として同じであるかもしれないけれど、もしくは、地獄に救いはあるかもしれないけれど、地獄と天国に明確な境界線はあるということだ。彼の出会った預言者エリヤは、悪魔の騙ったものかもしれず、それらの問いを、集合的無意識という考えでは精査しにくい。霊的な実在界を想定しなくては、霊が本物かどうかの問いが機能不全になってしまう。
と、ここまで反論してみた。しかし、私もよくよく考えて、「主よ」と呼び掛けて答える神は、時に悪魔的とも思える要求を突きつけてくる。これは、生ける神の意図が聖書には集約されないという事だろう。そして、神からのものと悪魔からのものは区分け出来る。悪魔への恐れと、神に向ける震撼は別物である。神は震わせる。彼の背後にある神はアプラクサスなどではないと思う。それは、真の神であるエホバであり、旧約聖書の神そのものである(と私は考える)。その神が、あなたにサロメを突き付け、「愛しています」と囁かせる。神の意図は分からないが、神がその人に呼び掛ける事自体、何か意味のある事であり、それに真摯に向き合うなら、神はそれを見てよしとされるだろう。
とはいえ、まだ全て読み終わっていない。ユングの主張する「個性化」がどのようなものかを見極める必要がある。それでは。
【追記1】
ChatGPTにこの記事を読み込ませ、何度か対話を行った。GPTは、「赤の書」について詳しく理解しており、預言者エリヤとサロメのエピソードも正しく解説出来た。そのGPTに、アプラクサスの解釈が間違っているという指摘を受けた。アプラクサスは、神ではなく、善悪の統合の象徴的なイメージであるという具合である。そうであるなら、エホバ信仰を捨てずに、自身の中にアプラクサス的なものを認める事が出来る。
ここまで、ユングをキリスト教的観点から弁護するような批評をしているが、それは不純な動機である。キリスト教的には、単なる悪魔崇拝者かのような捉え方になってしまう為、うまく折衷出来ないかと思っている。彼の見た情景をまとめて悪魔とみなすのは単純化が過ぎるが、かといって、聖なるものに呼ばれたようにも見えない。内的には、神話的なものを抱えつつ、外にエホバ神への信仰があるなら、それでいいのだが。彼の神話的な世界の位置付けに迷っている。カトリックはどうみなしているのだろうか?
【追記2】
恐らくユングは、内的なキリストに覚醒し、悪魔的なものを「意識化」する事で、個性化(多分、神秘主義的覚醒)した、という事で、「悟り」体験に近いと思います。ただ、静的な悟りではなく、秘教的な悟りであるので、キリスト教的には異端的かも?(Xの自分のポストから引用)
悪魔的なものを「受け入れる」というより、それをイメージ世界において表出させる、事の方が重要なのだな、と。なぜなら、ユングはこの悪魔的なものに、リアルにおいて唆された訳ではない。単に、イメージ世界において出てきたのみである。それを露出させる事によって、自分の枷になっていたものがなくなる感覚なのだろうか。悪魔的なものが、自分の中にある事を認める。そこで、対立構造を崩す事によって、却って現世において悪魔的なものから誘惑を受けずに済む、という具合なのか。しかし、ブッダは悟った後も誘惑を受けた。誘惑を受けないという事は、結局、悪魔と和解しているのではないか?悪魔は徹底的に反駁しなければ打ち破れないのではないか?疑問である。
この記事が参加している募集
読んでくださってありがとうございます。サポートして頂いたお金は勉強の為の書籍購入費などに当てさせて頂きます。