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〈日記と評論〉物語としての神:哲学、信仰、そして精神性│小説レビュー【おすすめ本】

 今日、月曜日は休みなのだが、7:30に起きて、8:30の電車に乗り学校に向かった。レポートの課題において、参考文献の本を大学の図書館で探す為だった。参考文献の本は、一件は見つかったが、もう一件は借りられていた。当該授業の学生は100人ほどおり、その中で真っ当にレポートを書く学生にとって、その参考文献は必要だった。確かに借りるのは権利だが、君が借りたら皆が使えなくなる、という発想はないのか、と思った。諦めて、該当箇所の記述を消し、そそくさと課題をパソコンから提出した。大学の滞在時間は僅か一時間であった。


一神教について

 それで、今日は電車の時間、行きも帰りも本を読めなかった。行きは課題関連のことをやっていたが、帰りはDiscordで議論をして、Xで宗教関連ポストをしていた。今日の活動を再度論評していこう。まずX。

 宗教関連ポストは非常に受けが悪く、いいねが全くつかない。僕が所有している宗教観(カトリック神学)と日本人の宗教観の相性は悪いのだろう。もしくは、日本人自体、哲学的議論を好まない為、響かないのか。個人的には極めて洗練された主張をしているつもりなのだが、嘆かわしい。

 つまり、ここで主張しているのは、多神教は物語的解釈のみであり、根源的には唯一神というものは想定されなければならない、ということだ。三位一体は物語的解釈(子であるイエス)を含む。神が受肉した、というのは、神を語る為の一つの壮大な物語であって(物語=作り物、という意味ではない)、有機的だが形を持たない神にアクセスするには、物語が必要だ。唯一神への信仰と、物語的解釈の両立である。形を持たない神を取り払ってしまったのが多神教であるが、ふと、「神様、どうか」と日本人が祈る時の神は、この純粋概念としての唯一神である。

 ところで、スピノザという近世合理主義の哲学者がいる。彼は、汎神論を唱えたことで知られる哲学者である。それはつまり、こういうことだ。この純粋概念としての神のみを神としたのがスピノザである。しかし、この神を、我々はどのように捉えるのだろうか。単なる超越では、我々と関わりを持てない。だから、もし神を身近なものとして捉え、我々が関わりを持とうとするなら、物語としての、神の顕現が必要だ。それを行ったとするのがキリストの受肉である。つまり、物語としての神は、唯一神へアクセスする手段として機能する。こういう点から見れば、一神教かつ多神教なのがキリスト教である。逆に、多神教では、超越者である神は存在しない。それでは、物語はただ消費されるだけのものになってしまう。

 「神々の共存」にしろ、まるで神を動物の一種かのように捉えており、それは物語である以上のものではない。真理は有神論にあり、そこで希求される神は唯一神である。無限定の超越者を想定することで、そこに全てを見いだせる。

精神性について

 ところで、これをポストした後、しばらくDiscordでやり取りした。一神教についてのポストを共有し、それにコメントが着いた。が、その人は自己解決に至り、論点はなくなった。後に、政治の話題になった。個人的にこの記事で取り上げるのは、これ。

抜こう作用 — 今日 12:59
ファシズム詳しくないけど、穢れた精神性の人間が考えた政治思想ってどれも等しくゴミだと思う
ニーチェを理論の支柱として有難がってる人間とか、まともにニーチェと同時代で関わったらあんな奴の言う事を真に受けないだろって視点が欠如している

 もっとも、ニーチェはナチズムなのだが。また、ムッソリーニが穢れた精神性かは知らない。自身の主義をファシズムと称した人がいたので、こうコメントした。ただ、根本は、左翼過激派などから高貴な精神性を感じない。マルクスを聖典と認める前に、あらゆる哲学に真摯に向き合ったのだろうか?僕はマルクスの生き様は好きだ。彼は「宗教は民衆のアヘン」と言ったが、信仰者以外は正しく信仰というものを理解出来ない。それは、理解しようとするとき、類推で行うしかないからだ。しかし、それそのものをして信仰を体感した人にとっては、所詮戯れ言である。さて、それにしても、マルクスのニート生活は素晴らしく、彼の人生の華の開かせ方は、まさに自由を謳歌しており、理想的だ。しかし、一片の間違いも許さない徹底主義の立場からすれば、マルクスの聖典無謬説は崩れ去る。

 無論、マルクス理論を修正して受け継ぐ立場はあるだろう。これが修正主義なのか?ともかく、マルクス理論が検討に値しないとは思わないが、しかし背景にあった精神性に若干の疑問はある。せめて、イエスという人物を脳内にインストールしてから、真贋を確かめるべきだと思う。

テスカトリポカ

 このようなやり取りをした後、訪問客としばらく会話をした。ミサについての話題を振った後、今日あった出来事について話して聞かせた。客が帰ると、その後、しばらく「テスカトリポカ」という小説を読んだ。麻薬カルテルのトップで、対立カルテルに兄弟やメンバーを殺され、自身もメキシコを追われたバルミロは、アジアを経由して日本に辿り着く。アステカの神々をまとい、武装勢力を組織しようと試みるバルミロは、ネグレクトを受けて育ち両親を殺した孤児、コシモに接近する。闇社会の暴力と、その中で生きる人間を描くクライム・ノベルである。

 一時間ほど読み、物語は終盤に差し掛かったが、これはキリスト者的には喜ばしい物語展開になる兆しを見せていた。憎しみよりも狂信的で、家族の為に悪逆の限りを尽くすバルミロは、純粋な悪であるが、悪役的な露悪や小物感がない。彼というキャラクターは、それ自体神話的であり、独自の魅力を放つ。本小説は純粋に物語として完成されており、直木賞に相応しい一冊だ。今日中には読み終わるだろう。

 ということで、今日も色々と考えた一日だった。それでは。

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抜こう作用
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