文科省の小1プロブレム: 文化人類学の眼差しと共に
GIGAスクール構想、令和の日本型学校教育、そしてこのタイミングでの指導要領改訂と丸々盛々のコンテンツ追加を実行し続ける文科省。
それだけでない。コンテンツ追加に伴い、彼等は圧倒的に膨大な資料の読み込みを現場の各教員に強いては、その機能を麻痺させる。
まだある。以下の資料を見てほしい。色使いといい文章量といい、新卒が作成したスライドのNG集を見ているかのような見にくさがある。おじさんの謎の絵文字😄⭐️ばりの独特な文化が浸透しているようだ。
そして極め付けは現場の余裕の無さに目もくれない曖昧な表現に実情は常に乖離するリスクを伴う。
①関心意欲態度、②知識技能、③思考力判断力表現力といった項目に分けた観点別評価は、現場に余裕がないあまり、見えやすいものだけを評価し取り上げて、発達したかのように仕立て上げることが可能だ。
「バランス良く」と言うが、そんな余裕はない。テストの点数の高低でその教科に向かう姿勢があるかどうかを判断して関心意欲態度としてしまえるのだ。
文科省がAと言ったことは鵜呑みにしてはいけない。常に現場に即した別の言語に置き換えなくてはならない。AからBを生み出すのだ。もはや創造的と形容してもいいかもしれない。これは私達にあまり馴染みのない別の文化を有する人間への理解に向けた文化人類学である。
私達は常に文科省の言語を翻訳し、更にそこから直訳では済まされず、状況に応じて高度に解釈しなければならない。
戦後から絶えず膨らましてきた風船がいつ割れるのか、ハラハラし、耳を塞ぎ、片目で見ようとしている私がいる。その空気を萎ませることはできるというのに、割れるまでやってみたいのか未だに膨らまし続けている。足し算はできるというのに、なぜ引き算ができないのか。自らの引き算という働き方改革を棚に上げ、研修(本当に正気なのだろうか)などを現場に強いる。引き算のできない文科省は小1以下だろうか。
今日も何も変わることはなく、我は久能整だと言い聞かせ、必ず他者を理解できるという前提の下、文科省の発するあれこれに対して応答を試みている。
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