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読書ノート②わたしを離さないで

就活の移動時間に読んだ本の2冊目だ。
2冊目はこちら。

カズオ・イシグロの最高傑作との呼び声高い作品だ。
今回もネタバレ有で書いていこうと思う。


あらすじ


主人公キャシーはイギリスで暮らしており、「介護人」として「提供者」の世話を日々こなしている。

ヘールシャムは、いわゆる養護施設のような印象を受ける施設だ。
子どもたちと幾人かの先生が共同生活を送り、自由時間もあるし、勉強も教えてくれる。
キャシーは幼馴染のルースやトミーと、しあわせな幼年時代を過ごす。

ただ、養護施設と決定的に違うのは、キャシー達がクローン人間であり、臓器移植のために育てられる人間だということだ。
キャシー達はみんな、薄々そのことを知っていて、先生の口からそれが明確に告げられた時も淡々と受け入れる。

成長したキャシー達は、ヘールシャムからコテージへと移動する。コテージにはヘールシャム以外の施設から来た人々がおり、共同生活を営んでいく。

ルースとトミー、キャシーの三角関係や、ルースのポシブル(クローン元)を見に行くなど、いくつかのできごとを経て、全員が旅立つ時が訪れる。

コテージを出ると、まずは介護人となった後、提供者になるのだ。
国中に点在する施設を行き来して暮らすから、かつての友人と会うことも難しくなる。

ある日、キャシーは提供者になったルースとトミーに再開する。
そして、「本当に愛しあう男女は提供まで3年の猶予が与えられる」という噂の真偽を確かめるようキャシーとトミーに進言する。

キャシーとトミーは2人でマダム(定期的にヘールシャムを訪れていた謎の人物)の住所を探し出し、提供までの猶予をもらえないか交渉してみる。
しかし、噂はあくまで噂で、猶予など無かった。

マダムの館にはヘールシャムの先生がおり、ヘールシャムの目的を説明してくれた。
ヘールシャムはクローン人間も人間であること、人道的配慮を世間にアピールするための施設だった。

トミーは役割を終えて、この世を去る。
そして次はキャシーが、提供者になる番が来た。

感想

冒頭からキャシーの一人称で話が進んでいくのだが、まず感じるのが、翻訳のうまさだ。
「~~でしょう」「~~じゃありませんか」という言葉遣いが、キャシーの上品さ、冷静さを表し、ミステリアスな雰囲気を作り出している。

そして、日常生活の描写の細やかさが素晴らしい。
淡々とした退屈な、でも幼年期や青春のきらめきに満ちた「日常」が目の前に迫ってきて、まるでキャシー達と時間を共有したかのような錯覚に陥る。

そこに、「どうやら何か大切なことが隠されているらしい」という奇妙さ、閉塞感がほんの一筋混じってくる。
どこにでもありそうな日常なのだけど、一筋縄でいかない、独特な雰囲気が形成されている。

臓器提供のためのクローン人間を人道的に育て上げる施設、という設定を見て、私はこちらの漫画を思い出した。

こちらの作品では、主人公たちは鬼に食べられるために育てられている。
ストレスなく育ち、優れた教育を受けると、味が良くなるため、主人公たちは丁寧に育てられる。

こちらの作品との決定的な違いは、主人公たちが死ぬために生まれてきたという運命を、受け入れているかどうかだと思う。
『約束のネバーランド』の主人公たちは抵抗し、システムそのものを壊すために立ち上がる。

『私を離さないで』の主人公たちは、他者のために死ぬ運命を比較的すんなりと受け入れているように見える。
抵抗らしきものをしていた場面と言えば、ルースが自分のポシブルを見たがった時だろうか。

ルースは、自分がもし外の世界に生きていたら、どんな可能性が広がっていたのかを知りたかったのだろう。
だけどそれだって、変えられない運命を受け入れた上で、最後の希望を叶えようとするような後ろ向きさが感じられる。

主人公は、いずれ他者のために死ぬことをわかっていたからこそ、こんなにも鮮明に昔のことを覚えているかもしれない。
どこまでが本当なのか、読者である私たちにはわからないけれど、本当だろうが間違えてようがどうだってよくなってくる。
どちらだろうと思い出の美しさには変わりがない。

冒頭で、キャシーが介護している提供者が、しょっちゅうキャシーにヘールシャムの思い出話をせがむ。
キャシーはその様子を見て、「繰り返し聞くことで、私の記憶とこの人の記憶が溶け合って、ヘールシャムのことを自分のこととして思い出すかもしれない」と語る。

自分の記憶でなくても自分の記憶のように感じたい、という願望は、私にも覚えがある。
もっと高校の頃遊びたかった、この街で生まれ育ちたかった、この年頃に留学してみたかった、など、もう手に入らない諸々の記憶を愛おしく思うことがある。
私に許されているのは、他者の記憶や物語を通して、私が過ごしたかった時間を疑似体験することだけだ。

苦しみ抜いた末にこの世を去る時、しあわせな記憶に包まれていれば、心安らかにいられるのかもしれない。
たとえそれが自分の記憶でなくても。

反対に、どんなに忘れたくないと思った記憶でも、生きている内に手からこぼれ落ちていく。
記憶だけじゃない。
大切なものを失くしてしまうこともあるし、ふとした拍子に人間関係が壊れてしまうこともあるし、いつまでもあると思っていたお気に入りのお店が無くなってしまうこともある。

生きることと失うことは切り離せない。
その事実を突きつけられるからか、この作品を読んでいると切なさがこみあげてくる。
いずれこの世を去るという事実自体は、主人公たちも私も一緒なのだ。
その時、手放したくなかったあれこれを手放して、1人きりなのかもしれないということも。

ただ、その時までどんな風に過ごすかまでは、誰にも決められていない。
変えられない運命に直面しているとしても、運命にどう向き合うかは、私が決めることができる。
その向き合い方にこそ、その人らしさが宿るのだと思う。
キャシーたちの生き方が、人間味溢れる色彩を帯びたものだったように。

人生なんて儚い、と皮肉一杯に言うこともできるけれど、儚いからこそ愛おしいと思える。
これから、どんな記憶を作ろうか。
残り時間をちょっとずつ意識するのも、いいのかもしれない。

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