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『ヒロシマ・ボーイ』 〜Mas Arai ミーツ アライマサオ〜

LA郊外に住む日系人庭師が、ひょんな事から殺人事件に巻き込まれる「マス・アライ ミステリーシリーズ」。ある時は日本庭園の池の底から、またある時はカジノの駐車場で(傍らには沖縄の三線)、はたまたドジャーススタジアムで、何故か被害者を発見してしまう宿命を負った、ちょっと不器用で朴訥としたマス爺さん。地に足のついた洞察力のある彼の目を通して、それぞれの事件の背景、彼を取り巻く日系社会、妻や娘との関係、そして闇に埋もれた日系史までも、繊細かつ生き生きとした筆致で描かれてゆく。

シリーズ第7弾の舞台は、なんと8月の広島。帰米庭師仲間のハルオが亡くなり、広島でご健在の彼の姉に遺灰を持ってゆく為、結婚で「一時帰国」した時以来、約50年ぶりにマスは日本の地を踏む。関空から広島へ、更にIno島へ。辿り着くや否や、またもや少年の水死体を発見する羽目に、、しかもマスはその少年ソラを、島へのフェリー内で見かけていた。
思えばマス自身がその年齢だった頃、親の故郷広島で教育を受けていて、沢山の友人達をピカドンで失ったのだった(病弱な孫の事を、被爆者である自分のせいではないか?と心を痛めるシーンが、「Gasa-Gasa Girl」というシリーズ2作目の中にもある)。
年代も背景も、国籍も異なる少年と自分(マス)、2人のヒロシマボーイズの物語が交錯する様は、まるで祈りを込めて川に流され、ゆらゆらと漂う灯籠のよう。Ino島のモデルの似島は実際、多くの被爆者達が次々と運ばれ、埋葬された所で、今でも広島市内の式典とは別に慰霊祭が行われているそうだ。50年の時の流れへの戸惑いと、時が経っても身体と心にまだら模様の如く染みついている思い出をベースに、Ino島の複雑なコミュニティーに巻き込まれ絡み合い織りなす物語は、国籍とは、人種とは、家族とは、そして自分とは何だろう、という問いをそっと投げかけてくる。

マス・アライのモデルは作者の日系3世、ナオミ・ヒラハラ女史のお父上だそうで、マスのひとり娘マリの視点からも描かれているのかも、と思うと更に興味深い。軽快で時にコミカルな、さらりとした文体ながらも、その昔、移民を多く排出した広島と原爆との皮肉な巡り合わせ(一方、クリスチャンの多い長崎との関係も余りにも皮肉ですよね)、西海岸居住者が送られた日系人強制収容所の事、日本へ行った事のないNiseiと日本育ちのKibei、他の作品では日系人部隊、沖縄ルーツの歴史など、アメリカの日系社会にまつわるありとあらゆる事実や背景が、行間からさりげなくじわりと滲み出てくる、その「さりげなさ加減」が、さすが羅府新報の元記者ヒラハラ女史の手腕によるもので、まさに醍醐味。更に「Saa」「Hehhh」などの感嘆詞、「benjo」「bakatare」などの若干レトロ昭和用語、「shikata ga nai」など、時代や暮らしぶりがうかがえる日系人特有の表現が所々見受けられるのも、スパイスが効いていて味わい深い。

原書発売から3年半の時を経て、この度8/6に小学館から邦訳文庫本が発売された。シリーズの中では「ガサガサ・ガール」「スネークスキン三味線」が既に出されているのだが、今回は満を持して平原直美名義で世に出す事を希望されたという、ヒラハラさんの意気込みが感じられる。芹澤恵さんの訳により、「じゃろ」「ぶち」など人々の言葉が広島弁で生き生きと語られ、より現地の空気感、人々の体温、気候の暑さや湿度までもがテンポ良く伝わってくるのも面白かった。

最後の場面(ネタばれ)。川の土手にて、マスはハルオの灰を空に放つ。きっとその時、Mas Araiとしても、アライマサオとしても、常に何処か宙ぶらりんだった自分の魂をも解き放てたのだ、と思う。

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