決して忘れてはならない日「2011.3.11」
東日本大震災から今日で10年が経過した。
あの日に起きたことから見えたこと、そして今後起こるであろう巨大災害に備えていくためにも、あの日の記録と記憶は決して忘れてはならない。
あの日の出来事
当時実家の大分に住んでいた私は家でくつろいでいた。午前中はちょうど県立高校の合格発表のニュースが流れていて、同級生も映ってたりしてたから(私はすでに私立高校に入学が決まっていた)、夕方のニュースも楽しみにしながら、お昼のワイドショーを見ていた。
地震発生の瞬間は確かミヤネ屋を見ていた気がする。ちょうど東京からニュースを伝えるというときに地震が起きていて、地震情報で「震度7」という情報が入った時は、これはただ事ではないなという予感はした。
その後NHKに切り替えて見続けていると、東北地方の各地に大津波が押し寄せ、短時間で建物が壊れ流されていく様子がテレビに映し出された。それを家族と一緒に見ていて、何も言葉が出てこなかった。
夕方から夜になると、東京の帰宅困難者による徒歩での帰宅・幹線道路の大渋滞の様子が流れ、同時刻に東北地方では津波による広範囲での火災の様子が流れ、「一体どこの範囲までどのくらいの被害が広がっているのか」全く想像できなかった。日付が変わるころに「沿岸で200~300人の遺体が見つかった」「多数の行方不明者が出ている」などの情報が流れはじめ、徐々に出来事の恐ろしさを実感し始めていった。
震災翌日~
翌日の新聞には「東日本で巨大地震」「大津波 日常のむ」という、今まで聞いたこともないワードが大きく掲載され、被害の様子が画像で掲載されていた。またテレビ欄を見ると、各局が報道特別番組の放送を予定していたので、空白の目立つテレビ欄になっていた。
翌日になると、福島第一原発による危機が伝えられ始める。そして午後3時半過ぎ、1号機で水素爆発が起きたという速報が流れると、私含め、みな原発事故による放射能の恐怖を味わうことになった。歴史の授業でも1986年(昭和61年)のチェルノブイリ原発事故が紹介されるが、あれを思い出させるような出来事が起きてしまったことに、戦慄が走った。
そして人的被害の全容が明らかになるにつれ、死者・行方不明者の数がどんどん増していくのを見て、改めて今回の災害が広範囲にかつ甚大なものであるのかを実感した。
3日目の日曜日も各局が報道特別番組を放送していて、過去最長の報道特別番組となった。
震災当時の新聞記事を残しています。記事には津波の画像が含まれますので、精神的に負荷のかかる場合は閲覧をおやめください。
あの日からの教訓と今後への備え
あの日に起きたことは教訓として、今後起こるであろう南海トラフ巨大地震をはじめとする巨大災害に備えなければなりません。
例えば帰宅困難になった場合、震災当時は多くの人が街に出て、公共交通機関が長時間ストップしているため、何時間もかけて徒歩で帰宅した人が多かった。しかしそれでは2次的な災害に巻き込まれる可能性があるので、今後は建物に異常がなければ会社や近くの施設にとどまることが大切である。
そして、津波への避難であるが、あの日は「想定外」の規模の地震であったため、指定避難所だった場所も津波に巻き込まれたところが多かった。そのため、今後は指定避難所に固執せず、より高い場所に避難することが重要だと分かった。
避難所よりも高い場所に避難する
そしてそこよりさらに高い場所を見つけて避難する
それが一番の「防潮堤」となる
いつ、どこで、どのくらいの災害が起こるかわからないのがこの世の常。あの日に起きた出来事を記録として残し、語り継ぐとともに、今後起こる同様の災害に備えることが大切だ。私も今すぐにできることを実践して、有事に備えていきたい。