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「100点中10点もとれたのか!?」って喜べないわけ

子どものありのままを受け入れることが一番大切。
子育ても、教育も。

存在そのものに価値があるんだよ。
あなたがそこにいてくれるだけでいい。
あなたは何もできなくても愛されている。
あなたの存在そのものを愛している。

そんなメッセージを与えてもらってきたかどうか。
それが子どもたちの一番大事な根っことなる。
どんな強風が吹こうとも、どっしりと構えて、生きていける強さの源になる。

では、その根っこがなければどうなるというのか。
例えば、
何かを成し遂げないといけないという不安を感じたり、できないことがあれば自己否定したりする。
失敗に対する恥ずかしさを人一倍感じる。
そして自分が失敗することやできないことを見越して、自分を守るためにチャレンジしない人になってしまう。

「あ、私のことだ」って思った人は多いはず。
私もその一人だ。

だからこそ親になった今、私はそのことを知り、「何もなくても大好き」「いてくれるだけで嬉しい」と、存在そのものを肯定する言葉を3歳になる我が子に意識的に伝えるようにしている。


では、教室の子どもたちにはどうか。

「100点満点で10点も取ったのか!? 生きてるだけで満点なのに、10点も加点するのかよ!」って笑って、「よくやったな!」と喜べばいい。



喜べばいい、はずなのだ。


しかし、心の底から喜べない。

教師という立場が、その言葉を、その考えを否定する。

それは、教師という職務自体が、完璧に近づけることを目標としているからである。
言い換えれば、そう義務付けられているともいえる。
教育という社会的事業は、シンプルに言えば学力をつけることを目的としている。

もちろん、その他にもたくさんの目標がある。
しかし、学力に重きを置いていることは、教師をしていればみんなが知っている。

学力が高い方が良い、という価値観が教育界の当たり前であるからだ。
その教育界の正しさが、学習が苦手な子の存在を肯定する言葉に、異議を唱える。

「いや10点て……あかんやろ。もっと勉強しな」
「社会に出たときに困るよ」
と、学力ありきの評価がすぐに始まる。

そうではなく、そんな子達の気持ちを考えて発言する教員がいたとしても「勉強しなくても、生きて " は " いけますよね」と、" 学力がある方が良い生き方ができる" と信じきった言葉が使われるのが普通だ。

「10点しか取らせてあげられなかったんですか?」

子ども達の学力を高めることを望まれる教師は、" 学力を伸ばせる教師こそ力のある教師である " という価値観が一定数ある。
自分の教え子が学力が低いことを認めるのは、自分の能力の低さをアピールするようなものである。
肯定すれば、他人の評価も落ちるという考えもよぎるかもしれない。

周りの子どもたちに「先生がそういうなら勉強とかしなくてよくない?」なんて言われ、学力低下の悪循環に入りそうな気もする。

そう言っている時点でまず、他人の評価を気にして「できる教師じゃなきゃダメだ」という条件付きの肯定という思い込みに縛られている。


そんなこんなで「勉強できなくても大丈夫!あなたはあなたであるだけで素晴らしい!」なんて言えないのだ。

教師がいかに学力という枷に縛られているか。
お分かりいただけただろうか。



存在の肯定こそが、心身ともに健やかに生きる土台となるのに、それすら与えることができない教育界の正しさがある。

その教育界の正しさは、大人たちが望む社会の姿。
そして、それが今の社会だ。

つまり、社会そのものが、条件付き肯定で成り立っていると言える。


何かができなければならない。
何かを持っていなければならない。
そうでなければ、自分には価値がない。


この社会に適応できるものはいい。
実際社会は成り立っているし、進歩もしている。
(かなり急激に文明が進歩しているため、人間性はついていっていないが)


しかし、しんどいし、つらい。

教師も、親も、子どもだ。
きっとそれ以外の大人も、そう感じる人は多いはず。

無理があるのだと思う。
教育の正しさの歪みが、いろんなところで出ている。


トップにいるのが、学力重視で育てられた人たちだし、その中で勝ち残ってきた人だから、「学力が大事!学力をみんながつけるべき!大丈夫!できるって!私みたいにやればね!」という前提で進んでいくのはわかる。

そういう人たちが、みんなを引っ張ってきたのもわかる。

わかるけれど、このままでは変わることはない。

どうしたものか――。



私は、手放しで「君は存在するだけで素晴らしい!」と喜べる教師でありたい。

それは変わらない。
そこをどう言われようが、自分の信じる道を行く。

今は、教育の正しさとどうにか折り合いをつけていくしかない。
私にできることは限られている。
いつか、「存在の肯定が一番大切だ!」と社会全体の常識になるまで、私は発信し続けようと思う。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました!





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