【短編】『コンピュータが見る悪夢』(中編「密売人」⑥)
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コンピュータが見る悪夢
(中編「密売人」⑥)
翌朝、まるで近所に遊び相手ができたかのように軽快に踊りながら家を抜け出した。フィルの歩く先には、誰もいない店の外でメッキの剥がれた大きな鍋から炎と煙が絶え間なく噴き出る。去り際にフィルの鼻へと吸い込まれる変わったソースの香りは、その幼い体を別世界へと誘う。
「いくらでもとっていっていいですよ」
青いシャコー帽と軍服を纏った男がフィルにそう告げると、目の前の薄汚れた街並みは瞬く間に色鮮やかに移り変わる。スイーツや、おもちゃ、ぬいぐるみ、そして冬用の洋服。ありとあらゆる楽しみが、フィルの行く先で待ち受けていた。レゴブロックの箱を手に取ると、今度はバッドマンのフィギュアに目がいく。気がつくとフィルの両手には、おもちゃが山のように積み上げられ、それを落とさぬようフィルは無意識に踊っていた。
「こちらを差し上げましょう」
軍服男はそう言って、巨大な一つの風船を雲の中から引っ張り出すと、青いリボンのついた紐がゆっくりと下ろされた。軍服男はまるで傘をさすかのようにその紐の先端を掴んだ。風船は宙で浮いたまま何かを待っている様子だった。
「でもどうやって?」
フィルの困った顔を見た軍服男は、満面の笑みで人差し指を巨大な風船の方に向けた。
「投げてください」
「上に投げるの?」
「そうです。上に投げてください」
フィルは軍服男の言う通りに、両腕に抱えたおもちゃの山を勢いよく宙に投げた。おもちゃが地面に落ちてしまわないかと不安になったフィルは咄嗟に開いた両手で目を塞いだ。
「上を見上げてください」
恐る恐る指の隙間から空に目を向けると、投げたおもちゃは長い列を作って巨大な風船の方へと引き寄せられていくのが見える。
「不思議だあ。ものが浮いてしまうなんて」
「ここは重力を思い通りに操れるんです。ほらあなたも地面に足をつけてないで私と飛びましょう」
軍服男は、怖くないとでも言いたげに白い手袋をはめた左手をフィルに差し伸べた。男の手を取ると、瞬く間に地面は自分から遠ざかっていった。突然の浮遊感がフィルの心を揺り動かした。なんて爽快なんだ。こんな喜びを今まで味わったことがない。フィルの頭上ではおもちゃが風船の中へと吸い込まれていく。列の最後に並ぶクマのぬいぐるみが少し遅れて到着すると、開いた穴は口を窄めた時のように綺麗に閉じ、中の様子は見えなくなった。
「もう大丈夫でしょう? さあ、これを握って」
軍服男は手を離すと、反対の手に持った世界で一番長い紐をフィルに差し出した。フィルは初めて自由を掴むためか一度躊躇の顔を見せた後、ニコリと笑って紐を握った。軍服男は美しくい宙を舞って空の飛び方をフィルに見せつけた。フィルもそれに続いて一回転、二回転と体を柔軟に曲げた。徐々に低飛行を始め、再びおもちゃ屋の前まで来ると二人は着地した。店の中に入ると、いつの間にか軍服男はいなくなっていた。目の前にあったおもちゃの棚は次第に酒の並ぶ棚へと変わっていった。フィルの背負うリュックの中には、ガムやライター、メンズシェーバーの替刃、洗濯洗剤の粉末の入った箱が無造作に入っている。レジカウンターまで行き、いつものようにおじいさんにタバコの銘柄を唱える。
「いつもご苦労だね。今日はタバコだけでいいのかい?」
フィルは一瞬ヒヤリとした。たしか前は歯磨き粉と一緒にタバコを買ったはず。タバコだけを買いに行かせるなんて父らしくない。ついでに何かを買ってくるよう頼むのが普通だ。咄嗟に何かを発していた。
「あ、ちょっと待ってて」
フィルは再び、商品棚の方へと戻った。棚には生活用品がどこまでも並んでいる。父が買いそうな商品は他に――。必死に今までのメモ書きにあったものを思い出した。咄嗟に以前買ったことのある小さな箱が目に入った。形はタバコの箱とほぼ変わらないが表にはハートが描かれている。それを手にとってレジカウンターに置くと、おじいさんは目を丸くしてくすりと笑った。
「まだまだだ元気だねえ」
フィルはおじいさんが何を言っているのかわからず聞き返した。
「元気?」
「いいや、いいんだ。お父さんによろしく伝えておいてくれ」
「――うん」
やはりおじいさんが何を言おうとしていたのかわからなかった。フィルは昨日使わなかった小銭を出して箱を両ポケットに入れた。笑顔を見せてからリュックの中身を悟られぬよう慎重に店を出ていった。ようやくフィルの背後で扉が閉まる鈴の音が響くと、数秒後に達成感と安心感とが一度に押し寄せた。つい先ほど抱いた疑問はフィルの頭から消えていた。父はきっと喜んでくれるはず。人の役に立つことがこんなに嬉しいことだとは知らなかった。フィルはリュックに入った荷物の重さを全身で感じた。
人の声はそこら中で響き渡っているが、通りは依然閑散としている。自分は偉業を成し遂げたのに誰も誉めてはくれなかった。道路の向かい側からは見知らぬ機械がじっとフィルを見つめていた。電動キックボード。なんでこんなところに止まってるんだろう。何もかもが遅れているこの街で最新機器の混じった光景は異様に見えた。
あっ。
キックボードがウィンクすると、瞬時にフィルの記憶を呼び起こした。「洗練されたニューモデル」とどこかの会社が大々的に宣伝しているのをテレビで見たことがあった。本当にあのキックボードなのか? よく見るとハンドルの中央から足場にかけて伸びた線が白く点滅している。まるでカルトゥーンに出てくるスーパーヒーローが乗っているもののようだった。本物だ。本当にあったんだ。フィルは目を輝かせ、感動を隠しきれずに深く息をついた。誰かにこのことを自慢したい。フィルにとって憧れのキックボードを目にしたことは、初めてタバコを吸ったときや初めて万引きをしたときと比べ物にならないほど胸を高鳴らせた。
自分も乗ってみたい。
知らぬ間にフィルはそう胸の中で呟いていた。通りを見渡すと、持ち主らしき人物は見当たらなかった。街は通りの真ん中で一人立ち尽くすフィルを静かに見守っていた。きっとどこか店に入っているだ。両手でリュックの肩紐を握り締め、ゆっくりと光を放つ機械の方へ歩を進めた。間違いない。テレビで見たのと同じだ。フィルの体は今までにない緊張と興奮で熱くなっていた。
「ハンドルに両手を当てて進めと唱えるだけ!」
キックボードがこちらに向かって呼びかけたような気がした。しかし違った。それはフィルの記憶にあるキックボードのコマーシャルだった。足場に両足を揃えてバランスを取る。ハンドルにあるパネルに両手をのせると機械が聞いたこともない美しい音色を奏でて起動する。あとは、唱えるだけだ。一度深呼吸をしてからフィルは言った。
進め!
キックボードは勢いよく人気のない通りを滑走した。その速さに一瞬フィルの鼓動が早まるも、徐々に機械の振動と同化していった。フィルはキックボードになり、キックボードはフィルになった。スーパーマーケット、クリニック、お寺と次々と見慣れた景色がフィルに近づき遠ざかっていった。いつもと同じ景色を見ているはずなのに、どこか新鮮味があった。自分はヒーローにもなれるんだ。心の底からそう思えた。
と思った次の瞬間、フィルは暗闇の中にいた。嫌な匂いがした。誰かが近くでタバコを吸っている。自分が吸ったことがあるのよりも強烈な匂い。息を吸うたびにその匂いはフィルの鼻を刺激する。他の匂いも混じっている。土の匂いだ。ということは、自分は今どこかの公園にいるのだろうか。ゆっくりと目を開けると、草陰にさっきまで乗っていたはずのキックボードが倒れていた。目をこすると、目の前の視界が真っ赤に染まった。
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