【短編】『コンピュータが見る悪夢』(中編「密売人」①)
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コンピュータが見る悪夢
(中編「密売人」①)
フィルの心を癒してくれるのは、インディカ系のマリファナのジョイントを吸うときと、餌を求めてやってくる野良猫に少量のミルクを与えるときぐらいだ。イン・ザ・カウチでくつろげるからインディカと言うが、フィルはソファではなく床に寝そべることが好きだった。床をのたうち回るやつなどろくな人生を生きていない。自分もその一人になれたらいいのにと思った。床板からは雨に濡れたセメントの匂いがする。だが雨は降っていない。開きっぱなしの窓から舞い込む冷たい風が、ジョイントから沸き立つ、い草を燻ったような匂いもろとも消し去っていく。
ふと自分の名前を忘れていることに気がつく。フィル――。そうだ。おれはフィル・ウォーカーだ。すでに半夜を過ぎていた。時間の経過というのは恐ろしい。しかしもっと恐ろしいのは、人間がその時間に支配されていることだ。突然思考が加速した。もしこの時間というものが、時々来る野良猫のように可愛らしかったら、仕方なく諦めてそれにつき従って生きよう。しかし時間はその姿を現さない。なぜ我々はなんのいいこともないのに時間に支配されて生きなければならないんだろうか。普段よりも何倍も遅く、しかしより物事の深部に迫ろうとする思考から導き出された答えはこうだった。きっと人には見せたくないほどの醜い顔をしているんだ。一日はこうして煙の中のくだらない妄想とともに大気に溶けてなくなっていく。
朝になると、フィルは赤ん坊から大人へと固く縛られたロープで引きずり戻される。ロープを引いているのは仕事という現実だ。時間と同じく見せかけの存在。しかし時間よりかはその輪郭はくっきりしている。小太りで、右頬に火傷の跡があり、獲物を狙う鷲のような目つきをしている。ボスのマックスが、フィルにとっての仕事の見え方だった。
「おい、なんで今朝無線に出なかった?」
「あ、いや、聞こえませんでした」
朝は仕事のやる気が起きず、無線を切っているとは言えなかった。
「聞こえないはずないだろ。二度も声をかけたんだぞ?」
「すみません。ちょうどコーヒーを買いに行っていまして――」
「お前みたいな下っ端が警部みたいなことしてんじゃないよ」
「はい」
もちろんコーヒーを買いに行っていたことはウソだ。
「まあいい。とりあえず、この資料、今日中に整理しておけ」
デスクに積まれた紙は遺失届や盗難届、取得届などだった。
「これをどうすれんばいいんですか?」
「あ? 話聞いてなかったのか?」
「はい――」
「各項目が全て記入されているかの確認。されていなかったらそれを外す。記入されているものはスキャンにかけて保存しろ」
「わかりました」
犯人を逮捕する才能はないが、こういった書類の整理は手際良くできた。しかしそれがやりたいわけではない。こんな時代に紙を使うなんて無駄な業務にもほどがある。落とした物を届けるくらいの良心がある人間なら初めからパソコンに情報を入力させればいいのに。と心の中で愚痴をこぼしながら紙を記入済みと未記入で振り分け始めた。
両目と両手が同じ動きをし始めた頃、ふと自分はなぜ毎日パトカーに乗ったり、書類を整理したりして、犯罪防止や公共安全の維持に務める日々を送っているのだろうか。それらが自分に何をもたらすのだろうかという考えがよぎった。しかしいくら悩んだところでこれといって目標もなく、目的も見当たらなかった。お金がもらえるからだと一言でまとめられることもできるが、それは浅はかな考えだと知っていた。働き始めた当初は、自分は社会復帰をしていい給料をもらうと意気込んでいたが、今やその気概は皆無に等しかった。マリファナを吸い続けること以上にもう理由がないのだ。辞めようと思えばすぐにだって辞められる。ドラッグディーラーで収入を得られるのだから、立派に働く必要もない。叔父に対する恩義もさほどなかった。
「おい、書類の整理は終わったのか?」
「はい。終わりました」
フィルはボスに向かって自信ありげに答えた。
「なら他にやることがあるだろ? なぜ自分から動こうとしない?」
「はい。すみません」
ボスからのその言葉は、やる気がないなら警察を辞めろと言われているような気さえした。しかしそれはある意味正しい。なんの恩恵ももたらせない者は、そこにいても邪魔なだけなのだ。今や自分は組織が求める人材ではなく、組織の求めないただそこにいるだけの人在となっていた。
「もういい。おれがおまえに仕事を振る。おまえはそれをまっとうしろ」
「わかりました」
そう言えば、なんでも解決できた。何かを指摘されたら、真っ先に「わかりました」そう言うのだ。自分などボスにとって取るに足らない存在である。ボスの癇癪のはけ口としているようなものだ。だとすれば、手懐けたと思わせる方が世の中うまく生きやすい。時々、積極的になれだとか、自分で考えて行動しろだとか、今何が求められているのか考えろだとかを言ってくることがある。ああ、今ボスは不安定な心の波の底辺にいるのだ、と思いながらその煩わしさを胸に納めて、わかりました、と一言申す。翌日からは普段通り、あれをやったか、いつ終わるんだ、次はこれをやれ、などと与えた仕事に対する質問をするようになる。
一方で、言われたことばかりをこなすことも厄介なことだった。全てを言われたままにやれば定時を過ぎるどころか、家にすら帰られなくなる。フィルの場合は、残業だけで済んだものの、日々職場に残り続けている者がいる証拠に、署内の明かりは消えることはなかった。決して防犯のためなどではない。
「ヨウ、ブリード。最近見ねえじゃねえカ。何してんダ?」
黒のフードを被ったイタリア系アメリカ人は、妙なやり方で収入を増やしているフィルに興味津々だった。
「体を壊してたんだ」
「そうか。おれたちはてっきりあんたが足を洗うためにバックれたと賭けてたんダガ、違ったようダ」
「そんなウソ誰が吹いたんだ?」
「ここはベイエリアだぜ。誰が発端かなんてわかりゃしないさ」
「クソ。俺は今でも現役だぞ?」
「ああ、でもよう。本当にあんたがいなくなるとこの街のみんなが困るんだ。お前の売る薬は他と違うんだ――。頼むぜ」
「チッ。そんなのあたりめえだろっ」
わざわざ説教をしてくる客に苛立ちを覚えならがも、希望したグラム数の覚醒剤を手渡した。男の手は外の空気と変わらぬほど冷たかった。フィルは代金を受け取ってその場を去った。
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