【短編】『僕が入る墓』(序中編)
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僕が入る墓(序中編)
明美は戸を全開にして、僕に向かって手招きした。
「元気にやってるか?」
「はい。元気です」
明美の後ろから顔を出すと、お祖父様がベッドの上に腰掛けて体に湿布を貼っていた。顔の所々に薄茶色の染みが目立ち、白髪をすべて後ろに綺麗に流して、いかにも厳格な人物といった顔立ちをしていた。しかし、体格の方はと言うと、整った顔立ちの割に骨が見えるほど痩せ細り、肩や首もと、背中まで肌色の湿布で埋め尽くされていた。
「おお、明美の旦那さんじゃないですか。よく来てくれました」
「こちらこそ、あれからご無沙汰しております」
「まあ、二人ともお掛けなさい」
と言って、お祖父様は大きな黒のリクライニングチェアに僕を座らせて、自分ははじに寄って明美をベッドの枕元に行かせた。一息つくと、お祖父様は明美の方を向いて話した。
「仕事の方は順調かい?」
「はい。頑張っています」
「そうかい。明美は諦め癖があるからな。続けられているのは良いことだ」
「辞めたくなる時もあるんですけどね。でもその時は拓海に励ましてもらってます」
いつも僕に生意気な態度をとる明美が、お祖父様の前ではまるで別人だった。家族の前で敬語を使うどころか僕のことまで褒めるほど礼儀正しくなり、驚きの域を超えてむしろ感心するほどだった。
「そうかい。夫婦で助け合うことは何よりも大事なことだ。これからも明美をよろしくお願いします」
と僕と明美のちょうど間あたりに向かって深く頭を下げた。再び明美の方を向き直って話を続けた。
「向こうでの生活は大変じゃないかい?」
「はい。特に不便はしてないです」
「そうかい。ところで明美はこっちに戻ってくる気はないのかい?」
明美の表情が若干固くなったような気がした。
「んー。こっちだと仕事が限られちゃうからちょっとまだ考えてないです。でも子供が産まれたら住みたいなって思ってます」
「そうか。安心したよ。この家は誰かが引き継がなきゃいけないからね」
「はい」
と明美はお祖父様から目を逸らして呟くように小声で答えた。
僕と明美は共働きの生活をしている。明美は東京の転職エージェントの会社に勤めている。普段はオンラインでの転職希望者との面談が多く、会社に出社することは滅多になかった。そのため共働きと言えど、家事全般は明美に任せっきりだった。一方で、僕は東京に本社を置く大手電気メーカーの経営企画チームのもとで働いている。毎日一時間かけて電車通勤し、会社では部長に頼まれて資料をまとめたり、自分から企画を提案してみたりと、日々業務に追われていた。だが給料はそれなりにもらえ、何より退職金が出るため不満はなかった。いわゆる終身雇用を認める会社なのだ。この家に移住するとなると、言うまでもなく今の会社を辞めざるを得なかった。そのため僕は明美の計画に対してはあまり気が進まなかった。終身雇用なのだからなおさらだ。お祖父様が再び口を開いた。
「明美に兄弟か姉妹がいればよかったんだが。今からお母さんが産むわけにもいかないからね」
「はい」
「旦那さん、一つ宜しく頼みます」
と再び僕と明美の間あたりに向かって頭を下げた。お祖父様は決して僕の顔を見て話そうとはしなかった。すでに明美と結婚して一年と経っているものの、まだよそ者としてお祖父様には受け入れられていないような気がした。しばらく明美とお祖父様が会話に熱中していると、「ご飯よー」という義母の声が遠くからかすかに聞こえたような気がした。するとお祖父様もそれを聞き取ったのか明美との話を中断した。
「ご飯だそうだ。お皿を運ぶのを手伝ってやりなさい」
「はい」
と明美は返事をしてから僕に外に出るよう目で合図した。
日はすでに落ち、空は瞑色がかっていた。絶えずカエルの鳴き声が僕の耳を刺激し、耳のすぐ後ろにカエルの気配を感じて仕方がなかった。廊下には小さな電灯が木の板を等間隔で照らしていた。僕は騒がしいカエルの鳴き声の中から明美の小さなため息の音を聞き取って、後ろからそっと話しかけた。
「お祖父様やっぱり優しいね」
「そう?」
「うん。叱られなかったじゃん」
「そうね。私が大人になったのかも」
「どういうこと?」
「うまく機嫌を取れるようになったってこと」
「昔はもっと生意気だったの?」
と僕は冗談めかしに聞いてみると明美が目を細めて言い返した。
「生意気ってどういうことよ?」
「あいやっ、可愛げがあったというか」
「んー。そうね。もっと女の子っぽかったかもしれないわね」
廊下を歩き続けてやっと居間の前まで来ると、台所からお皿を運んでいる義母の姿が見えた。
「ありがとうございます。これ、机に運べばいいですか?」
「あ、じゃあお願いします。あとお箸とかも。明美、突っ立ってないで手伝ってちょうだい」
「わかったー」
と明美は気力のない声で唱えた。明美の態度は先ほどのお祖父様の前での礼儀正しさとは打って変わって、生意気そのものだった。
晩御飯は、金目鯛の姿煮に味噌汁、すき焼きもあった。まるで料亭のような豪華さだった。ちょうど四人が席につくと、お祖父様がチェックの半袖シャツを着て、居間へとやってきた。
「あ、お父さん。もう準備できているのでお座りなさってください」
「ああ」
義父はテレビのリモコンを握ってチャンネルを回し始めた。朝日放送、信越放送、長野放送と回していると、全部コマーシャルを流していた。一つ前の信越放送に戻すと、ちょうどコマーシャルから本編へと切り替わった。義父はリモコンを机に置いた。古民家をリノベーションして新しい洒落た民泊施設を作るといった番組だった。古民家の中は、柱が折れていたり壁に染みがついていたりとかなり年季が入っているようだった。僕は義父の選んだ番組に耳を傾けながら、金目鯛を適量小皿に乗せて自分のところへと運んだ。
「そろそろ、この家もリフォームしたほうがいいかもな」
と義父が呟くと、黙り込んでいたお祖父様が味噌汁のお椀を手に持ったまま真顔で答えた。
「バカなこと言うんじゃない」
「バカなこと?俺は本気で言ってるんだぞ?」
「家を取り壊そうってんならわしはお前を八つ裂きにする」
食卓は一瞬にして凍りついた。僕はお祖父様の突然の乱暴な言葉遣いに肝を冷やした。明美も驚いた様子で箸を持った手が止まっていた。するとすぐに慣れた様子で義母が間に割って入った。
「お父さん、冗談言わないでくださいよ」
「冗談なんかじゃない。わしは本気だ」
「父さん、取り壊すんじゃないよ。リフォームするんだ」
「わしにはどっちも一緒に聞こえるが」
「リフォームってのは、改築だよ。そりゃ一部取り壊さなきゃいけなくなる場所もあるだろうけどよ、全部じゃない。原型はとどめるんだ」
「細かいことはわしはわからん。とにかく取り壊しは絶対に駄目だ」
再び食卓が静まり返ると、ポツポツと雨水が垂れる音が聞こえてきた。すると瞬く間に大量の雨が屋敷全体を覆った。
「雨よ!」
と言って義母は焦った様子で立ち上がり、廊下の方へと消えていった。
ちょうど同じ頃、少し離れた高台にあるお寺では、近くの田んぼから聞こえてくるカエルの鳴き声が真夏の到来を告げていた。雨は降っていなかった。住職は墓地の点検を済ませると、いつものように懐中電灯を玄関のフックにかけた。そして引き戸の鍵を閉めてから電気を消した。墓地は満月の下で一年ぶりの熱帯夜を迎えていた。電気が消えると辺りは真っ暗になった。しばらくすると、お寺の白い壁に一つの人影が映った。その影はじっとその場から離れず時が来るのを待っている様子だった。すると何かの合図の音が響くと同時にその影は見る見るうちに数を増やしていき、墓地の方へと消えていった。
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