【短編】『遠い散歩』
遠い散歩
気づいたら私は過ぎ去る景色を目の前に電車の中で揺られていた。よくあるのが通勤通学路を何度も行き来するうちに脳が距離感覚を覚え、ある日家を出てから考え事をしているとすでに駅にたどり着いているという現象であるが、それが電車に乗ってから気づくまでとなるとこれは何かの病気なのではと思ってしまう。私の中で時が過ぎ去るのがあっという間であるのは、年々他人と比較していくうちにそうなのだと自覚し始めていたものの、いざその消えていった膨大な時間を目の前にした時にふと恐怖心を覚えるのだ。その膨大な時間が過ぎ去る間、私は特に何かを手にしたわけでもなく、かと言って何かを手に入れようと思っているほど野心的であるわけでもなく、しかし何かを失ったという冷たい感覚に陥るのだ。私が思考する瞬間、何かに没頭する瞬間、現実へと戻る瞬間しばしば時は、遠い過去に私を置き去りにするのだ。
しかしある日のこと、私はいつものように考え事をしながら道を歩いていると、目的の場所への道とは全く別の道を歩いていることに気がついたのだ。それほど元の道からはずれてはいないだろうと思いながら場所を確認すると、隣の県すら跨いでいたのである。私はひどく焦りを抱くとともに自分の危機感の無さに今までにない恐怖を覚えた。まるで自分が夢遊病にでもかかったかのようだった。その後もどこかへ出かける度に、気がつくと別の電車に乗っていたり、見知らぬ建物の中に入ってようやく我に返ったりなど無意識化での異常現象は続いた。
もう何度も起こる奇妙な現象に徐々に慣れ始めた頃、私はとある駅のホームの小さなベンチ座っていた。私はすぐに自分が再び無意識のうちにどこかへ歩き続けてしまったと悟った。駅の名前を確認する前に、一度目を閉じて深く息を吸うとそのままため息をついた。すると隣から誰かに囁かれた気がしたのだ。目を開けると、先ほどは気づかなかった若くて同い年ぐらいの女性が座っているのである。私はその女性を見て吃るように聞き返した。
「あ、え、ななにか言いましたか?」
「あの、何か困っていることでも?」
「あ、いえ、大丈夫です」
きっと彼女は心の優しい人で私の深いため息を聞いて声をかけてくれたのだろう。しかし私は見ず知らずの人に心の内を打ち明けるほど気を落としているわけではなかったため、すぐに会話を終わらせた。
しばらくベンチに座って目を瞑っていると、再び女性は囁いた。
「あの、私でよければお聞きしましょうか?」
「いえ、なんでもないんです」
「そうですか。何かありましたら言ってくださいね」
「ありがとうございます」
最初は彼女が隣に座っていたことに驚かされたものの、徐々にその穏やかで透き通る声にどこか居心地の良さを感じ初めていた。一層のこと彼女に悩みを話してしまおうかとも思ったが、その後の彼女の反応が怖くて自分からは何も言い出せなかった。するとちょうどよく彼女が呟いた。
「実は私、毎日このベンチに座ってはこうやって暇をつぶしてるんです。あ、決して変な人ではないんですよ?」
私は何も答えずに彼女の方に微かに視線を向けながら何度か顎を縦に振った。
「時々なぜか突然この町を出ていきたくなってしまって駅のホームまで来るんですけど、どうしてもあと一歩のところで踏みとどまってしまうんです。そしたら、今日はなぜかあなたがこのベンチに座っていた。あなたはなぜこのベンチにずっと座っているんですか?」
私は自分がこの場所にたどり着いた経緯、そしてそれがいかに自分を苦しめているかを語る絶好の機会だと思った。
「実は、座りたくて座ったわけじゃないんです」
「あら、そのなんですか?」
「気づいたらここに座っていたんです」
「それって何か嫌なことがあったということですか?」
「いいえ、言葉通り本当に気づいたら、ここに」
「そんなことあるんですね」
「ええ」
「私もそれができたらいいのにな」
「え、今なんて?」
「いや、私も気づかぬうちに知らない場所にいるなんてことができればなって」
「私はそれが恐いわ。気づいたらあっという間に時が過ぎていて、ふと周りを見たら自分の知らない光景が広がっているの」
「そうね、確かに恐い。でも楽しそうでもあるわ」
「楽しそう、ね…」
私は知らぬ間に彼女に対して敬語を使うのを忘れていた。彼女も同様に私に敬語を使ってはいなかった。しかし何も不自然には思わなかった。私たちはとうの昔に知り合って今また久方ぶりに再会したかのような心持ちに似ていた。
「私、この街が嫌いなの。何もすることがないし、友達もどんどん遠くへ行ってしまうし」
私はそれを聞いて、自分がいかに遠い町まで来てしまったのかと思いながら彼女に言葉を投げかけた。
「でも私はこの町は都会よりも空気が綺麗で落ち着くわ」
「あら、都会からきたんですか?」
「ええ、そうなの」
「都会ってそんなに空気が汚いの?」
「場所にはよるけど、人が大勢集まるところは大抵汚いわ」
彼女は私の言葉を聞いて意外そうな顔を浮かべながら、もっと都会の話を聞きたいと言わんばかりに前のめりになった。
「ねえ、私を都会に連れてってよ」
「え、私が?」
「ええ」
「あなたもこれから帰らなきゃいけないんでしょ?」
「そうだけど」
「私あなたの目を見てて思ったの。あなたも私みたいに何か嫌なことがあって、それから逃げたくてここに来たんじゃないかって」
「嫌なこと?」
「うん。何か嫌なこと」
私は今まで一度もそんなことを思ったことはなかったが、ふと彼女の言葉がどこか的を射ているようにも感じた。ぼうっとする日々を送ることで私は何かから逃げてきたのではないか。私は現実から目を背けたいがために考え事をしてしまうのではないか。一瞬にして過ぎ去る時。それは実際には時が過ぎ去るのではなく私が自ら留まろうとしていたのではないか。彼女は今まで不明だった異常現象の原因、そして私の曖昧な気持ちをそっと言葉に表してくれたような気がした。
「そうかもしれない」
「きっとそうよ」
と彼女は自信ありげに答えた。
「あなたが遥々ここまで逃げてきたんだから、今度は私がここから逃げる番だわ」
「そうかもしれないわね」
「きっとそうなのよ」
「そうみたいね」
「ええ、そうよ」
「そうね」
と言って、私はベンチを立ってから彼女の手を取り、誰一人として乗車しない空っぽな電車の中に一歩足を踏み入れた。それからのこと私は一瞬たりとも時を逃すことなく、時間はずっと彼女と私のものになった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
今後もおもしろいストーリーを投稿していきますので、スキ・コメント・フォローなどを頂けますと、もっと夜更かししていきます✍️🦉
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