お母さんが嫌いなのは本当に私?それとも自分自身?

11歳の秋、学校の図書室で一冊の本に出会った。
青木和雄氏の児童書、ハッピーバースデーだ。
私は当時児童福祉の分野に興味があり、あらすじを見て何か学びになるかもしれないと軽い気持ちで手に取った。
最初の数ページで無性に引き込まれて一気に読んだ。
読み終わるまでに20回くらい泣いた。
何度も読み返した。
その時はまだ、自分が親に精神的虐待を受けているとか、親が普通じゃないとか、そういう認識はなかった。
それでも主人公のあすかは私だと思った。深く彼女に感情移入して、苦しかった。
この本を読んだことで、親に愛されず苦しんでいる人、苦しみから逃れるために自分を傷つけている人は私だけではなかったんだと知ってなんだか嬉しくもあった。
物語の後半、あすかが母親に聞く。
「ママが嫌いなのはあすか?
それとも、はるのおばさん?」
すぐにはこのセリフを消化できなかった。
はるのおばさんは母親の姉妹で、母親も子供の頃、はるののせいで親から愛情をもらえなかったと感じていたのだ。
そして、あすかにははるのと似ているところがあった。おそらく無意識のうちにあすかとはるのを重ねてしまったのだ。
嫌いな人に似ているからってどうして娘にひどいことするの?
私は幼すぎて理解できなかった。
成長するにつれ、人間はそんなに単純明快ではないこと、意思はなくても無意識にやってしまう言動も少なくないことを知っていった。
私の母はよく私に言った。
「あんたはパパの親族にそっくり。パパや祖母の悪いところばっかり持ってる。将来ああなるんだから気をつけなさい。」
当時は父と母はうまくいっていなかった。
母と姑も不仲だった。
私の言動を彼らに重ねて嫌悪してしまったのかもしれない。
また、ある時はこう言った。
「あんたは私の悪いところばかり似た。いいところは似ないで。」
母は典型的な完璧主義者だった。
私を通して自分の短所を見せられているようで耐え難かったのかもしれない。
当たり前だけれど、短所ばかり遺伝するなんてことは実際には考えられない。
そもそも短所か長所かは環境や場面によって変わってくると私は思う。
大抵の短所は使い方を変えれば長所にもなると思っている。
たとえば完璧主義の母は、向上心がありやるべきことをしっかりこなせるが、もしミスをしてしまったら自分を責めて疲労するだろう。周りの人にも完璧を求めて周りを追い詰めるかもしれない。
時と場合によっては完璧主義は武器にもなり仇にもなるのだ。
だから実際には私に短所ばかりしかないということはない。
ただそれは大人になってからわかったことで、実家にいた頃は母の言う言葉が全てだった。
私は親族の悪いところの詰め合わせだと思い込んでいた。
いくら考えを改めようとしても刷り込まれたものはなかなか取り除くことができない。
私は今もなんとなく自分は短所ばかりだという劣等感を持って生きている。
多分、母親に私を嫌っていた自覚はないんだと思う。
姑や夫に重なる部分が多いこと、姑と私が仲良しだったことで、無意識に厳しく当たってしまい、なぜかうまく愛せなかった。きっとそれだけなのだ。
だからって私を傷つけていい理由にはならないけれど。
私は常々、息子は私のコピーのようだと感じている。
気が短くてすぐイライラするところなんて本当そっくりだ。
他にも、やりたいことがあったら集中してできるまで練習したり、好奇心旺盛で新しいものが大好きだったり、自己主張がはっきりしていたり。
ふと、夫はどうだろうと気になって聞いてみた。
「息子見てて、自分に似てるなーって思う部分ある?」
すると、
「小さい頃の記憶はあまりないから分からないけど、今の自分と息子は全然似てない」
とのことだ。
やはり私のコピーなのかもしれない。
私は自分自身を好きになれない劣等感に塗れた人間である。
しかし今のところ息子を見ても不穏な気持ちは湧いて来ない。
気が短いと損するよとか、言いたいことはないこともないけど。
それを自分の人生でどう使うかは結局本人次第だ。
私が短所にしかできなかった要素を息子はうまいことプラスに変えられるかもしれない。
私と息子はよく似ていても別々の個体なのだ。
彼が成長していってもこのことを忘れずに接したい。
もしも我が子に私の母の面影を感じても、勝手に重ねてしまわないように注意を払っていかなければならない。
連鎖を止められるのは私だけだから。
この記事を書きながら、久々にハッピーバースデーを読み返してみたくなった。
誕生日を祝ってもらえないのって、やっぱり悲しいんだよね。

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nico
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