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対岸の彼女
人と出会うということは、自分の中に出会ったその人の鋳型を穿つようなことではないかと、私はうっすら思っている。その人にしか埋められないその鋳型は、親密な関係の終了と同時に中身を失い、ぽっかりとした空洞となって残される。人と出会えば出会うだけ私は穴だらけになっていく
解説の森絵都さんの言葉だ。穴があいてしまったのは、35歳の専業主婦の小夜子と、35歳のベンチャー企業社長の葵だ。葵にとって、小夜子の語る「家庭」も「子ども」も「保育園」も暗号のように感じていた。だけど、なぜか同じ丘を、まったく別のルートで歩いている、とも思う。
結婚している、していない、子どもがいる、いない、仕事をしている、していない、なぜ女どうしは、そこで区別しわかりあえなくなってしまうのだろう。
小夜子の視点で語られる「現在」と葵の視点で語られる「過去」と、2つの時間軸が交差を繰り返し、進行していく。
角田光代さんの小説は、女性視点の細かい心理描写がときに、意地悪く感じてしまう。女どうしを書くと、すっきり爽やかは難しいのかもしれない。高校生の葵も煌めきもあるけど、いじめにあったり、あわないように上手くやっていくずる賢さもある。
以前読んだときは、この女どうしというのに辟易したけど、今回は年齢を重ねることに心がいった。中学、高校生の頃の痛々しく瑞々しいあの気持ちは、失われるものでも忘れられるものだはない。ある。残っている。ただこわかったのだ。かわってしまったであろう相手と自分。
なんのために年を重ねたのか。人と係わり合うことが煩わしくなったとき、都合よく生活に逃げこむためだろうか
せっかく年を重ねたのだから、年と一緒に、小夜子や葵のように前に一歩進もうと思う。
角田光代さんもランナーだ。