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「世間さま」という名の宗教

どうも、こんにちは。

「世間なんか、クソくらえ」と言いながら、
周りの目ばかりを気にして生きてきたアサです。


とくに若いころ、私は、長らく「自分の不在」を感じて生きてきた……ということは、以前の記事にも書きました。

外側のカタチに沿わせるように、自分自身をアメーバのように変幻自在に変えてしまうため、常に「外側」が存在することでしか、自分の存在を確認できない。そして外側が変われば、容易に自分の存在も変化してしまう。

そんな不安定な状態を、こんな感じのイラストに表すことができます⤵⤵

外側のパーツよって、私がカタチづくられるイメージ

「自分もおなじだー」と思った方、おられますでしょうか? 


考えてみれば、子供時代に誰しもが通る道と言えるのかもしれませんね。

周囲の大人たちは、子供たちを、社会に適応できるまっとうな大人にすべく、さまざまな教訓や示唆、アドバイスを子供たちに伝え続けますよね。

子供は、まさに乾いたスポンジだから、
「これは褒められ、これは叱られるんだ」
「これが常識、これが非常識なんだ」

と吸収してゆきます。


比較的いい子ちゃんであった私も、「周りの常識」をたっぷりと吸い込んで、社会人になる頃には、それらがギトギトの油のような重たい存在となって、私のカラダ中にまとわりついて、落とすにも落とせなくなっていました。

上記イラストの「外側のパーツ」は、「親」「教師」「上司」「友人」……などとそれぞれに別れておりますが、言ってみれば、

全員がもれなく「世間さま教」の信者。

つまり私の全身を覆っていたものは、一言で表すならば「THE・世間さま」でした。


そのようにして、またわたし自身も「世間さま教」に知らずと入信をしていましたので、どうにか脱会を試みようと、自ら洗脳を解いてゆくわけですが、はっきり言って、今でも片足をつっこんいると言わざるを得ません。


そんな世間にはびこる「世間さま教」ですが、
先日の、夫の家族の東京観光の際に、夫が見た「母(90歳)のすがた」が切ないので、どうぞご覧ください。

***


夫の家族は、全員がタバコ呑み。

だから夫は、都内の観光スポットをまわりつつ、定期的に喫煙スペースを見つけて、家族を案内していたらしいのですが、喫煙者である母親が、喫煙スペースの前で、

「わたしは、いい」


と言って、吸わないんだそうです。


人が誰もいないときには、喫煙スペースに入る母。
誰かが入ってこようとするや否や、そこから出て行こうとする母。

息子である夫が、

何してるの??


と不思議に思って、よくよく問いただしたところ、


自分が喫煙者であるということを、ひとさまに知られたくない!!


とのこと。

嗚呼!  お義母さん!(涙)
これぞ「世間さま教」の信者のすがたよ

そういうお気持ち、わかりますよ!!
でも、なんて不自由なんだ!(涙)


お義母さんは「いい齢した女性がタバコを吸っているなんて恥ずかしい」という価値観が抜けないのだ。
もしもお義母さんが「おばあさん」じゃなくて「おじいさん」だったら、そんなこと、わずかにも感じないんだろう。


「女として恥ずかしい」と思っているのに、どうして喫煙者なのかと言えば、ずっと昔、お義母さんが職業婦人として働いていたころ、

「タバコを吸う若い女性」は、自由・進歩の象徴として、カッコイイという「風潮」があったらしいのだ!


若かりし頃は、「風潮」にお墨付きをもらって堂々とタバコを吸っていたお義母さんが、性別、年齢に関わらず喫煙そのものを嫌悪する世間になってしまったことで、「恥ずかしさ」を感じてタバコを人前で吸えない……。

喫煙スペースで、他人に迷惑のかからぬようタバコを吸う……
そんな当たり前のことにすら抵抗を覚えている……



ついでにお義母さんは、いわゆる熟年離婚をしているのだが、

離婚の事実も「ひとさまに隠そうとして」生きている(涙)

一生を添い遂げるべきはずの伴侶と、はからずも別れることになったことを、昭和初期に生まれた女として「恥ずかしい」と思っているのだ!

もう一度、言うよ。お義母さん!
なんて、なんて、不自由なんだ!


離婚は、そりゃあ喜ばしいことじゃないだろうが、人は皆、いろいろな事情やいきさつというのがあって、考えに考えて、離婚に至るものだ。
自分が「もっと幸福に生きる」ために、その決断は、なされたはずだ。

だから、隠さず堂々と生きたらいいじゃないか。
いや、「堂々と生きよう」なんて、考えていること自体おかしくないか。


……でも90歳のお義母さんに、これを言うのは酷というものか……?
……その時代、その時代、生きた人にはそれぞれに大切にしてきたもの、矜持ってのがあるのだろうし……。

お義母さんのお気持ちも、とてもわかるのだ。

わたしが夫の家族とかかわる際に、強烈に「嫁という立場」にとらわれてしまうことも、まさしく「世間さまの常識」なしには、生まれ得ない感覚なのだから。



今日も私たちは、世間さまという教祖様を前に、ひれ伏す。


「ああ、世間さま、世間さま。
今日もわたくしめにご加護をありがとうございます。
世間さまのお陰で、今日も生きております」




……ああ………



もっと自由に、生きよう!
みんなで、そうしよう!


***


わたし達は、大人になるまでに、膨大なデータを脳みそにインストールして生きてきた。
そのデータは、いっさいの重量を持たないから、縛られたり、苦しめられていたとしても、わたし達は案外気づけない。

だからこそ、大人になったら、自分の考えが「一体、なにに由来しているのか」によくよく注意する必要があるだろう。

玉石混交の世間さまの価値観

一度インストールされた価値観を、アンインストールすることは、はっきり言って簡単ではない……

けれど、アンインストールの工程こそが、私たち大人の成熟への道である。

いつか私たち一人ひとりが「世間さま教」から自由になれたとき、
なんとビックリ「世間さま」は消えます!


わーーパチパチパチ。

ほんとうは、最初から実在しないはずの「世間さま」。

ありもしないものを「絶対にある」と信じて生きている、
私たち人間の脳みそは、果たして「高度」なのか「ただのアホ」なのか。

わたし達は、「世間さま」のお陰で生きられていることを知ると同時に、すべての人が「バラバラな個」として自律する、その両輪をうまく機能させる必要があるだろう。

この記事が「世間さまから、どのように受け止められるのだろうか」


ぶるぶる震えながら書いてみました……
お読みいただき、ありがとう。

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