あなた、どのくらい傷ついて 生きてきました?
こんにちは。
なにかとすぐ傷ついてしまう、へなちょこのアサです。
人は、一生のうち、どのくらい「傷ついて」死んでゆくんでしょうね。
「傷ついた回数」を、神様がカウントしてくれているならば、
いつか死んだときに、
「あなたの傷ついた回数」は、
大/ 3,231回
中/ 750,996回
小/ 9,837,264,928回
でしたよ。
みたいな感じで、きいてみたいな(笑)
えーー私、そんなに傷いてきたの?
と驚きつつ、隣の人のカウント数を見て、
「そんなちょっぴり?? んまーーうらやましいっ! 次に生まれ変わったら、わたしだって、傷つかないわたしになってやるわっ!」
などと、あの世で、わいわい比べっこしてみたいもんですわ。
そして逆に、「誰かを傷つけた回数」なども明白にされて、その事実にまた打ちのめされ、傷つくのかもしれません(笑)
あの世の話はともかく、この現世で生きている限り、「傷つきの矢」はいつなんどき、どこから飛んでくるか分かりません。
「この私を傷つけるな!」
「傷つく言葉を、絶対に吐くな!」
と、ひとさまの口にガムテープを貼ってまわれませんし、
そもそも、傷つける意図のない言動に、こちら側が勝手に傷ついている場合が多々あって、傷つくのは「自分自身の問題」という場合も大いにあるわけです。
だからこそ、どんな矢が飛んできても、ヒョイとかわせるような、そんな自分になれたらなぁ……。
「来世、生まれ変わったら」ではなく、現世で「傷つきにくい自分」になってやろうじゃないのっ!! キッ!!
***
ところで「傷つく」にも、星の数ほど種類がありますよね。
noterのみなさんの中にも、「傷ついた」なんていう言葉では片づけられない、トラウマレベルの壮絶な経験をされている方もおられます。
安易に、「傷つき」に言及するにも、深度や幅があり過ぎる。
なので今回は、日常で私たちの多くが経験する「ありがちなパターン」に絞って考えていこうと思います。
まず「傷つき」の前提として、2種類に分けましょう。
①「相手が傷つけようと意図していない場合」
②「相手が(大なり小なり)傷つけようと意図している場合」
***
まずひとつ目。「意図していない場合」
たとえば仕事などで、なにかのダメ出しや指摘、アドバイスを受けたとき、指摘した側は、その仕事内容に言及しているのに、
「自分ってダメだ……」と全人格を否定されたような気がして、傷つく・落ち込む人ってのがいるそうですね。
あ、若い頃の私ですね。
これって、やっぱり「自己肯定感が低い」ことと、関係しているのだそうですよ。ほんの少しのネガティブな言葉に、過剰に反応してしまってズーンと落ち込み、傷ついてしまうヤツですね。
そうか、自己肯定感がねぇ……
……にしても。
じここーてーかんじここーてーかんじここーてーかんじここーてーかん……
なんにつけても自己肯定感!!
どんだけ大事だっつーんだよ!(笑)
自己肯定感高め安定派の夫に聞きましたところ、
例えば、仕事の書類や企画書を出して、なんらかのダメ出しや、修正ポイントをいろいろ言われたとしても、「人格まるごと否定された」とはまったく思わないとのことです。
「能力やスキル」と「パーソナリティー」は別。
指摘された不備・不足 ≠ 人間的欠陥
ちゃんと「切り分け」ができておる……。
いや、私だって、頭では「そりゃ、そうだ」と分かるんですよ。
なのにダメージを受けてしまう。
あなたはどうですか?
夫は子供の頃も、
勉強で思うような成績がとれなくても、そのことで「自分そのものがダメ」と落ち込んだりしなかったそう。
「かわりに絵を描くことは、得意だもんね」などと、考えていたそうな。
なにそれ、うらやましいっ!!
……とここで、驚愕の事実が判明します。
夫は、そもそも自分のことを
「そんなにすごい人間じゃない」
「できないのは自分の能力が劣っているから」
と、自分のことを低く見積もりながらも、
「でも、いろんな人がいるんだから、それでいいでしょ」ぐらいにしか考えていなかったらしいです。
……は???
「自己評価」が低いのに、
「自己肯定感」が高いってどゆこと!?
一方の私は、
「私はできて当然」「できないなんてあり得ない」
という間違ったプライドによって、
実際の自分に比して「自己評価を高く見積もり過ぎた」
= 実体とのギャップが生まれ「自己肯定感が下がる」
結果、他者からのちょっとした指摘にも「すぐ傷つく」
「できる自分」を設定しちゃったもんで、他者からの指摘によって、「できない自分」に遭遇すると、落ち込み、傷つく……。
自己評価を高く見積もり過ぎたゆえに、
必然、自己肯定感が低くなる からくり
……そ、そんな、バカな!!
わたくしは今、猛烈に、傷ついています。
***
気を取り直して、ふたつ目の「傷つき」。
相手が(大なり小なり)傷つけようと意図している場合。
人格、性格、性質、容姿を指摘することによって、その人そのものを、もろに傷つけてくる場合です。
「あなたって、〇〇ですね」的なアレです。
わたしは20代の頃、とある小さな会社に入社したものの、合わないと思って、1か月もしないうちに「辞めさせてください」と男性社長に伝えたところ、こう言われました。
「あなた、線が細すぎるのよ」
ズキンとしました。
何しろ図星だったので(笑)
辞めるからって、それが迷惑だからって、
本当のこと、言うことないじゃん!!
クソがっ!!!
って、ガンバレルーヤのよしこちゃん風に怒ることもできずに、傷つきました。なにしろ
わたくしは線の細い乙女だったもので……
***
「線が細い」と図星をつかれて傷ついた若き日の私。
しかし、うすうす「メンタルが弱い」と気づいていながら、「そんなはずはない、弱いことはいけないことだ」と否定し、「私は、メンタルも安定している、できる人間ですよ」と自分を大きく見せようとした。
(完全にバレているのに)
「線が細い自分でも、仕方ないじゃないか。今はいいんだよ」と受容してあげていれば、他者からの指摘も、もう少し柔らかく受け止められたのではないか。
小さな自分をムリに大きく見せようとして、
そのギャップに、苦しめられた。
おつかれさまでした、乙女だったわたしよ。
***
さてそんな風に、自分の傷つきやすい性質を、とりあえず「受容」することで、「傷つき」は半減すると思うのですが、加えて、
他者からの「意地悪な、悪意ある言葉」にどう立ち向かうのか。
私たちがとるべき姿勢は、相手の悪意をそのまま受け止めない姿勢だと思います。
つまりは他者から吐かれた「悪意ある言葉」に対して、「自分がなるべく傷つかない方法をとる・傷つかない解釈をする」。
そんなスキルが必要かと思います。
ここで傷ついたら、相手の思うつぼ。
相手が、私を傷つけることはできない。
傷つくかどうかを決めるのは、この私。
と、心得る。
そもそも言葉の解釈って、それを受け取る側によって、「良いもの」にも「悪いもの」にもなりますよね。
例えば「あなた、まじめだね」という言葉にも、
「ほめられたと思う人」と、
「頭が固いとディスられたと思う人」と、2パターンある。
だから、「線が細い」の言葉も、
日頃から「おまえ、図太いな。なんなら図々しいな」と言われがちな人が、たまたま「あなた、けっこう線が細いわね」などと言われた場合、
え、うれしい…
と思う可能性だってあり得る。
私がうらやましいと思っていることが、誰かにとってはコンプレックスだったりすることもあり得る……。
すべては、受け止める人のスタンス。
だから、相手の悪意のある・なしに関わらず、
私たちは、相手の言葉を、自分勝手に解釈して、大げさにしないこと。
本来なら傷つく言葉でも、「自分が少しはマシだと思える解釈」に変換し直し、長く傷つき続けない。
刺さってしまった矢を、さらに自ら差し込んでキズを深くする前に、すばやく矢を抜く。
そんな勇気を持ちたい!
例の社長さんから「線が細い」と言われたとき、
「確かに私は線が細いのかもしれぬが、線が太いだけなのも、どうかと思うんだがなっ!」と心の中で叫べたなら、自分を受容しながらも、必要以上に傷つかなかったのだろうと思う。
あなたの「傷つき」には、どのようなパターンがあるでしょうか。
一緒に、余計な「傷つき」からすこしでも解放されましょうね。