「私は100%、私のしたいことしかしていない」というキツイ現実
あなたは、「あらゆることを、あなたのしたいようにして生きている」と言われたら、「その通り」と納得できますか。
私は長らく「自分のしたいように? とんでもない」と思って生きてきました。
しかし今は、「確かに私は、あらゆることを、したいようにして生きている」と認めざるを得えない事態となりました。
分かりやすいように、私の例で話します。
私は、母のガン闘病中に自分もガンになりましたが、そんな非常時に無理をして、母の見舞いに毎日行き続けます。
私Bは「休みたい」と切望しながらも、私Aは「行かなくちゃ」を優先して、見舞いに行き続けました。
マガジンの『脳みそジャーニー』でも書きましたが、脳みその「アタマちゃん(左脳)」VS「ココロちゃん(右脳)」のせめぎ合いによって、私は「見舞いに行く(左脳)」を優先させることを、自ら選んで、実行したのです。
誰に強制されたわけでもない。
休みたいなら休む自由もあった。
でも、見舞いに行き続けたのです。
あれ……どういうこと?
マジです。
悔しいけれど、これを認めない訳にはいきません。
いったい、どういうことなのでしょう。
私は、何がしたかったのでしょうか。
なんのために、見舞いに行き続けたのでしょうか。
本当は休みたかったのに、どうして⁉
どういうことかと言いますと、表向きには、「母が心配だから、愛しているから」見舞いに行った。
しかし心の奥には、身も蓋もない言い方になりますが、「世間様にまともな大人だと認められたい」というゴミみたいな欲求が私の心を支配していました。
心の中をよく覗き込むと、私は、具体的にこんな感情と戦っていました⤵
母の見舞いに行くことで、私は自分が一番欲しいもの、つまり世間様にまっとうな大人だと認められる状態を、手に入れようとしていたのです。
認めるのも悔しいけれど、これらを手放せないからこそ、私は見舞いに行き続けたのです。
私たちの社会では、私の例と同じように、頻繁にこんな声が聞こえてきます。
これらの不本意な選択に対して、
「だって、つきあいだから」
「それが大人として常識だから」
「あの人が求めているんだから、やるしかないじゃないか」
「そうしないわけにはいかないんだ、いろいろあるんだから」
という心の叫び。
思い切って、言ってしまいましょう。
全部、言い訳です
本当はそれらを選択することの「利益」を私たちは得ている。
私たちが「他者のために、仕方なくやっている」という主張の裏には、「自分が叶えたい状況」が必ずあるのです。
私は、娘としての立派な自分をアピールしたかった。
私は、病院の人や私を知る周囲の人に、「常識のある、思いやりのある大人ね」と思われたかった。
私はせっせと病院に行き続けて、「それらを満たしたつもり」になって生きていましたが、それらはすべて私の頭の中だけの出来事。
幻であり、全部、錯覚でした。
つまらないものを欲しがって、マジで、バカみたいだったと思っています。
私たちは、欲しくて欲しくてたまらない。
「いい人だね」「常識のある大人だね」と承認される喜びを。
「これでコミュニティーから外されないわ」と思える安堵・安心感を。
悲しい。
悲し過ぎる。
私は、そんな自分は、ダサいと思う。
でも私の中に、それがあったし、今だってある。
私は今、猛省しています。
母の見舞いは、私が行きたいから行くべきであって、誰かの目やナゾの罪悪感に支配されて行くべきものでは、決してなかったと。
自分の純粋なる「母に会いに行こう、元気づけてやろう」という愛情を動機にすべきであったと。
そうあればこそ「ごめん、ちょっと疲れてるから、明日は行かないね」と素直に言えたのだと思う。
次回もし、同じようなことが起きたとき、そうできる自分であろうと自分に誓っています。
……と、ここまで、
あらゆることは、自分の利益のために、したいようにしているのであって、全部、自分が選んだ選択であり、その結果も自分の責任です。
といった、まあまあ辛口のことを書いてきましたが、そのうち
「それは、私の責任ではありません!! と考える勇気を持とうよ」
という、真逆の話を書く予定にしています(笑)
たいていの物事は、「片方だけが真実」ということはありませんよね。
別のアングルからも、眺めてみたいと思います。
よかったら、またお会いしましょう。
(ご自身の脳みそにご興味のある方はこちらもどうぞ⤵)