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すべての女が、母の娘であるという宿命を背負って生きている

先日ついに、夫のお母さん(90歳)と、夫の妹さん(50代・お母さんと同居)の、東京観光が果たされた。

気象予報士と化した夫のおかげで、旅行日の3日間ともに快晴(笑)
そして初日の夕方、わたし達夫婦の家に、おふたりが遊びにやってきた。

旅行が決まるまでの大騒動の模様はこちら⤵⤵


挨拶を済ませた後、食卓テーブルに座っていただき、

「たくさん歩いて、お疲れになりませんでしたか~?」

などと、余裕のある声を掛けながら、内心ではあわあわしながら急須に湯をそそぐ。

いわゆる「お・も・て・な・し」(by滝クリ)というのに不慣れな私が、おしぼりを出し、手をガタガタ震わせながら緑茶を入れ、お茶菓子をすすめ、即席の「まともな嫁 風」をとりつくろう。


90歳のお義母さんが、部屋をざっと見渡して言う。

「こじんまりした部屋ね」



WWWWW



なんて正直なお義母さんなんだ!
その通り過ぎて、まったく傷つかないYO!


この日を迎えるまでに、私たち夫婦がどれほど膨大な口論を重ね、ジェンダーの差異をバチバチぶつけあったか、おふたりは知る由もないであろう(笑) 

日程が決まった後は、ふたりで掃除やらモノの配置移動やらで、大わらわであった。


ふふふ……知らないってのは、最強だね

お義母さん、昔、自分が味わった「嫁としての想い」は、もう忘れちゃいましたかね(笑)
妹さんは独身だから、その手のしがらみとは無縁かい?



「ベランダからの景色を観てみたいな」

妹さんが、屈託のない様子で言う。



いや、ベランダは、掃除してねーわ!!


なんだって、唯一掃除してないベランダにわざわざ出ようとするんだよ(笑)

洗濯物も干してあるし……
あーーーでも、もう勝手にしてくれ。


そんで結局、すげー必死で掃除したトイレには、ふたりとも入らないんだね?(笑)

タオルやトイレカバーも新調した私、おつかれ♡


ま、いろいろ準備したって、所詮こんなものだ。

そんなこんなで、しばらく大人4人でおしゃべりした後、夕食に天ぷら屋を予約してあったので、みなで移動した。
天ぷら屋なんて、大盤振る舞いだね、夫!

***


結局、夫は3日間、ツアーコンダクターよろしく、ふたりにベタ付きで、朝から晩まで、東京の街を案内した。
わたしは、初日の天ぷら屋以降は、最終日に東京駅にお見送りに行っただけで、実働時間はほんのちょっぴり。

なのにその後 数日間、動けなかった(笑)


なぜ、こんなにも疲れたかと言えば、

それは私が「女」だから…とでも応えておこう




私は、普段は「夫の妻」として生きているが、
限りなく「個人のわたし」として生きている実感がある。

しかし、おふたりが加わることによって、わたしは

〇お義母さん(姑)にとっての嫁となり、
〇夫の妹(小姑)にとっての姉(私の方が10歳年下ではあるが)

これらの「立場」「役割」が付加されるわけだ。

それだけでもうんざりなのだが、
さらに、わたしは夫から、同居するふたりの関係性について、日頃から、事細かく聞き及んでいた。

要約すると、おふたりは、以下のような関係にある。

母から認められたいと切望する娘と、
娘の存在に、頼り依存している母

ふたりは、毎日のようにケンカする一方で、どこか共依存関係にあるのだ。


お母さんは、「日頃の娘の物言いが、キツ過ぎてストレス」とぼやく。
一方で、お母さんのなにげない言葉に傷つき、泣きながら抗議しているのは、実は娘である妹さん。

親孝行したいと願う妹さんだが、母からは思うような「評価」がもらえず、承認欲求が満たされないままでいる妹さん

妹さんが仕事で優秀な結果を出しても、お母さんは家にパラサイトする娘を半人前扱いし、だが同時に同居してくれて「助かっている」とも思っているお母さん。

そういう、密着しすぎた ふたりの「母娘」の中に、
私という「女」がひとり混ざり込むと、おかしな化学反応が起こる。


***


わたしは初日の天ぷら屋で、一番年下の、立場の弱い嫁の身として、「これ、どうぞー」「あれも、頼んじゃいますね」などと、嫁としての評価点が下がらないようにと、必死に立ち振る舞っていた。

「いいカッコしい」の私の性分である。
普段はだらだらと生きているが、スイッチが入ると、コンシェルジュ的気質によって、あれこれと気働きをしてしまう。


すると、お義母さんが食事の最中、何気なくつぶやいた。

「なんだか、こちら(私)の方が、お姉さんみたいだね」


わたしよりも10歳も年上の娘がいる前で、お義母さんがこのような軽口を叩く。


やべぇ……


妹さんが傷ついたのが、表情を見るまでもなくわかった。


私も、「母の娘」であるから、分かるのだ。


娘ってヤツは、実母の言葉に対して、ものすごく敏感なんだよ。


この程度で、傷つかないって?
イヤイヤイヤイヤ……

私も、さんざん泣いてきたから、妹さんの気持ちが分かる。分かり過ぎる。


たとえ悪気はなくとも、ちょっとしたからかいや、嫌味や皮肉をまとった母の軽口は、ひとつずつの威力は小さくても、やがて娘の存在そのものを脅かす 巨大な爆弾になる得るんだよ。


他者を少しほめただけでも、「それに比べて、あんたはダメだね」と、くじかれているような気持ちになる、それが娘ってものなんだよ。

母からダメ出しされ続け、自己肯定感が低い娘なら、なおさらね。


世界中で、唯一、この人だけには、「自分を無条件に肯定して欲しい」と望んでいる、まさにその相手が、自分を否定してくるという哀しさ。

天ぷら屋で、突如、妹さんの「娘」としての気持ちにシンクロして、わたしは動けなくなる。
だが次の瞬間には、ふたたび「嫁」を演じるわたしが、忙しく立ち働いていた。

***


母娘は、同性であるが故に、息子と違って、心理的な距離がとりづらい。

互いに「他者」であるという意識が薄く、どこか一心同体めいて、溶け合う関係になりがちである。

だからこそ、私は早くに実家を出たが、さまざまな経緯で、ながく同居する女性もたくさんおられる。物理的に距離が近いほど、母と娘が「他者」として関わることが、より一層難しくなることは言うまでもない。


「娘の母」である人は、同時に、その昔は「母の娘」でもあったわけなのだが、お義母さん、ご自分の娘時代のこと、もう忘れちゃいましたか?

そうか、お義母さんは、ご自分が成人する前に、母親が亡くなっているんだもんね。

別のご苦労が、あったのだものね。

***


実母が、ときどき、わたしに言う言葉がある。

「女の子を産んで、本当によかった」と。


一見、ほめ言葉にも聞こえかねないこの言葉だが、要するに「男は役に立たないから、娘であるあなたにまかせたからね、頼んだからね」と言っているのだ、母は。
古い世代の価値観とは言え、モヤッとする。

でもそんな母自身が、女として家族全員に献身を捧げ、犠牲者として愛を体現してきたという、動かしがたい事実。


「献身し続けた犠牲者」だからこそ、娘の罪悪感のスイッチを、オンにし続けるだけのパワーを持つ。


母自身は、そんなパワーに無自覚なまま、軽やかに、今日も笑って生きている。

***


娘側のわたし達にできることは、まずは、母と適切な距離をとること。

そして、「母のための人生」ではなく、「自分の人生」を生きる勇気を持つこと。同時に、「母には母の人生」を生きてもらうことだろう。

そして、自分を生み・育てた母の言動に、いちいち傷つかないだけの、強固かつ柔らかな精神状態を創り上げること。

母のあらゆる言動を、「そうか、そうか」と笑って軽くいなせるようになったとき、わたしは母から真に自由になれるだろう。

***

わたしは母から、

「娘を産んで、よかった」


ではなく、

「あなたを産んで、よかった」


と言われてみたい。

そんなことをひそかに願う「幼きわたし」が、まだ心の中にいるのを知っている。

もちろん、母から「おまえなんか、産むんじゃなかった」などと言われる子もいるのだろうから、贅沢を言ったらいかんだろう。


そして、わたしは「母の立場」になったことがない。
だからこそ、一方的に娘の立場から「被害者」のポジションをとることには、慎重であるべきだろう。

私が思うのは、どんな母に育てられようとも、私たち子供が大人になってから「親の愛と承認に まだ餓えている」と気づいたならば、それは自らの力で埋めてゆくしかないということである。


寂しさも傷つきも、たとえ時間がかかっても、少しずつあたため癒してゆくことができると信じている。そう決意さえすれば。

わたしは、今回の旅行の「夫の母娘」の様子を、実母に、順を追って話した。

わたしがわざわざ細かく話す、その意図を、母が少しでも読み取ってくれることを、切に願いながら。

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