【続編】生きるってなんてバカバカしいんだ!!【シヲンさんへの手紙】
先日、シヲンさんという方が、わたしの記事『生きるってなんてバカバカしいんだ!! と絶叫した日のこと』を取り上げ、ご自分の想いを書き連ねてくださった。
記事をアップするまで、大分迷われたようだが、スティーブ・ジョブズ氏が遺した言葉 ”stay foolish” を胸に、勇気を持って私に届けてくれた言葉であった⤵⤵
私はシヲンさんへの返信として、「コメント欄ではとても書ききれないので、後日、記事としてシヲンさんのことを取り上げさせてください」とお願いしておいたのだが、シヲンさんは、もしかしたら抵抗を持たれているかもしれない。
それでも、”stay foolish” のスタンスで、わたしも勇気を出して書かせていただこう、そう思った。
シヲンさんと私の、偶発的に起こったこのやりとりの内容が、その他の読者の方々にとっても、なんらかの意味があるのではないか、そう思えたからだ。
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さて、ここからは、シヲン君という若きひとりの青年のために、手紙を書く。
「生きるって、なんてバカバカしいんだ!!」に共感したみなさん、前回の記事の続編としても読めると思うので、興味のある方は、ぜひおつきあいください。
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シヲン君へ
はじめまして。
私の記事を取り上げ、自分の想いを伝えてくださりありがとう。
フレッシュで熱量のある言葉が強烈に伝わってきて、しびれました。
あなたは、私の記事への感想を一本仕上げるうちに、頭の中がクリアに整理整頓されて、もはや私の言葉など必要としなくなったかもしれない。
それならそれでいいな、と思いつつ、私の想いも伝えてみたいと思います。
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あなたは、退屈の中で「生きるとは」と言う問いにぶち当たり、
私は、多忙の中で「生きるとは」という問いにぶち当たった。
これは、おもしろい気づきでした。
両者は、対極の言葉だけれど、暇でも忙しくても、結局あなたと私は、「生きるとはなんなのだ」という懊悩にとりつかれた。
「状況」とは関係なく生まれる想いなのだと改めて知り、昔の自分のことを、ふと思い出しました。
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今のあなたと同じ年頃の、20歳前後のころ、わたしは心の中がスース―していました。(スース―というのは、「空っぽ」という感じに近いかな)
表面的には、一人暮らしをしながら学校に通い、サークルに所属し、恋人に会い、友達とあつまり、複数のバイトに勤しむという、まるで青春を謳歌しているかのような若者でした。
しかし本当は、「退屈」を作ってしまうと、とたんに心細い気持ちになる。そのことを無意識に察知していたから、手帳の空白を埋めることに躍起になっていたのです。
しかし、予定を入れまくって「退屈」を埋めても、「確固たる自分」を確認することはできず、「私はこれでいいのだ」という感覚が少しも持てませんでした。
何者でもなく、脆弱で、いつも漠然とした不安を抱える自分。
一方で、「それを感じる心」には強い自負やプライドがある自分。
「若いってそういうことだ」と締めくくってしまえばそれまでなのですが、この若者である自分の「なんとも言えないやりきれなさや、心細さ」を、親や教師をはじめとする大人たちが「大丈夫だ。あのね、生きるとはつまり、こういうことだよ、こう考えてみるといいよ」と言葉で説明してくれることは、決してありませんでした。
それは、若かった私の悩みが、半分無自覚で、うまく言葉にならなかったせいもありますが、
加えて大人たちが、「この社会のルールに従って、食うために金を稼ぎ、その金を、例えば『わたしの学費』にあてたり、納税をしたりして、滞りなく家庭生活を営むことで精いっぱい」というような、
私が生きることの本質を切実に問う世界とは、「まったく違う階層」で生きているからなのでした。
若い私は、この現実世界を生きながら、心の奥底では、
ちがう、ちがう。
私、こんなんじゃない。
私、こんな風に生きたいんじゃない。だけど、どうあれば、自分が満足なのかもわからない。
そんな風に、もがいていました。
笑い合う友や恋人がいても、
「ねえ、私、生きるってことの意味や意義について話したいんだけど」
なんて、まさか言えなかった。
何の疑問もなく、カラオケをして、酒を飲んで、楽しく生きられる人たち。
その状況に「笑顔で調子を合わせる私」を、「そうじゃない私」が、さめざめとした目で眺めている。
とてつもなく孤独で、カラオケのトイレの鏡の前で、「自分は、いったい何をしているのだ」と茫然とした覚えがあります。
***
一方のあなたは、ご自分のことを、暇人・ニート・プータローなどといろいろに自称していますが、「退屈」ゆえに、「生きるとはなんだろう」と考えはじめたのですよね。
すごいじゃないですか。
20歳のわたしが、あなたを「すごいな」と見上げている意味、わかりますよね?
ひとりで、いられるんだね。
ひとりで、考えられるんだね。
自分の内面に向き合うことが怖いから、私は、外側の刺激を取り込み続け、紛らわすことしかできなかったのです。
わたしは、このとき、「あらゆる予定を入れても、むしろ虚しい、むしろ退屈である、心がまったく喜んでいない」という状況に、うっすらと気づいていました。
でも、どうしたらいいのか、皆目分からなかった。
あなたのように、もっと早くに「ひとり」になって、自分の心と向き合えばよかった。
あなたは、望んで「ひとり」になったわけではないのかもしれないけれど、わたしは大人になってから、例えば不登校の子や、自宅にひきこもった人々の「ある種の強さ」に魅せられて生きてきました。
自分には、それが「できなかった」。
当時はネットがなく、「リアルの暮らししか存在しなかった」ということもあるけれど、なんにせよ、良くも悪くもヘラヘラと笑顔を浮かべて、この世界に迎合して生きることしかできなかったのです。
それが、私の「青春」でした。
私は、自分らしく生きることや、自分が心底望んでいることに、一切向き合わぬままに、社会人になりました。
そして今度は、「食うために」に社会にどっぷりと浸かり、「仕事ができない自分」を卑下し、「できる自分」にときどき酔いしれて、「やりがい」などという言葉に踊らされながら、「多忙」を極めてゆきます。
「退屈」は見えなくなったけれど、私の根源的な虚しさは、ずっと解消されぬまま、それにも気づかぬふりで、仕事に邁進しました。
そうしてある日、「生きるって、なんてバカバカしいんだ!!」と、わたしの魂が雄たけびをあげたわけです。
***
30歳になって、ようやく「我に返った私」。
これからどのように生きたら満足だろうかと、未来を想像しました。
このまま食うために、さまざまな義務や責任やつきあいなどで、忙しく立ち働く。
そうして、あるとき、老後と呼ばれる時期がやってくる。
再び自由時間が与えられるわけだ。
はたしてわたしは毎日退屈せずに、満足しながら過ごせるだろうか?
若い頃のように、「退屈しないこと」を第一目的にして、空白にどうでもいいガラクタを詰め込んで、生きて、死んでゆくのだろうか。
今すぐ自分の人生を、生きなければ。
ようやっと、そのように認識したのです。
***
ところで、あなたが5年間をかけて費やしたという「くだらない」と称する夢。「青春のセの字もなかった」と感じている時間。
あなたが、どんな夢想をしていたのか分かりませんが、あなたが何か理想に食らいついた時間が、十代で存在することは、まずもって上等。
「よかったね、若い頃の生き方として、悪くないよ」と言いたい。
多くの人は、あなたのように何かの理想や目指すものさえ持たない。
そのため、かわりに他者を応援することに、時間を費やします。
自分の理想の姿を、他者に投影し、他者に叶えてもらうというのが、いわゆる推し活の一側面です。
若者は、誰かを推している場合ではない(笑) 「自分を推せ」って、やっぱり思う。
(……あ、いえ……推し活は趣味の範囲で、大いに楽しんだらいいと思うのです。別に否定するものではありません)
夢や理想は実現した方がいいに決まっていますが、多くの叶わない夢は、数十年経ったときに、「あの苦い過去があったからこその、今だな」と、あんがい思えるようになるものです。
……というか、「未来にそう思えるようになるよう、生きよ」と、えらそうに言っておきましょうか。
「無難で平坦な毎日」が連なるよりも、苦しい思いや恥ずかしい思いをしたり、誰かを妬んだり憎んだりするような、そんな感情の起伏がある経験を重ねた方が、あなたの人生という「物語」は、俄然おもしろくなる。
するとあなた自身も、今よりもっとおもしろい、味のある人間になってゆきます。
そして一般的に、人はそういう人にこそ、魅力を感じるものです。
ですから「夢の失敗」だけじゃなく、「手痛い失恋」や「受験に落ちた」「リストラにあった」「誰かに裏切られた」「恥ずかしい失敗をした」「だまされた」など、やりきれない経験に身を震わせ、死にたくなるようなことをたくさん味わっておくと、そのときは
すげーつらいけど、ほぼ全部、宝物になります
自分には青春のセの字もないと思っていたけれど、「あの痛々しい、苦しい時間こそが、自分の青春だったのだ」と苦笑いで思い出し、振り返る年齢になるころには、「同じことをするにも、もっとこうすればよかったのに!! なぜ、そうできなかったんだ!!」などと、「知恵のついた自分」が回想するのです。
あなたは十代にして、ご自分の過去を回想しておられるようだけれど、ちょっと早すぎやしないかい??(笑)
高校生のころ、英語の教科書にこんな文章がありました。
哲学者ショーペンハウアーの言葉で
「若い時、人は体力も行動力もあるが、知恵はない。しかし歳をとると、充分な知恵は蓄えられているが、そのときにはもう活力がないんだよね。人生ってホント、皮肉なもんですよね」というような文章でした。
高校生の私は、授業中にそれを訳しながら、「ほほぅ、そういうもんか?」などと妙に感心し、心に留めておこうと、今でも記憶しているのです(笑)
あなたは19歳にして、多くのことに気づいている、早熟な人です。
あなたのその感性は、大いなるアドバンテージになりますから、そのまま突き進んでください。
そして、一方で、こうも考えてください。
あなたが今現在どんなに賢かろうとも、50歳のあなたよりは、バカなのです。圧倒的にね(笑)
そうです、あなたは、これからその感性を持って、いかようにも自分を創りあげていける、「かっこいいと思える自分」を構築してゆける、そんな毎日をおくるためのチケットを持っているのです。
うらやましすぎるんですけどー(笑)
私も年齢にとらわれずに、死ぬまで成長したいとは思いますけれどね。
***
あなたは「今を生きる」ということも、体得しておられるようだから、何も言うことはありません。
かわりに、若かった頃のわたし自身に言ってあげたい言葉を思い浮かべるとするなら、
「今、自分には、あれもない、これもない、自分にはなにもないじゃないか!! クソ……どうしたらいいんだ!!」……などと思わなくていいよってことかなぁ。
そうではなくて、
「現時点の自分は、こうなんだ。持っているものも、少なからず、ある。まずは、これで、よし。……さて、これからどんな自分になっていこうかな」
そんな心持ちで、「今」という時間を過ごしていくよう、伝えてあげると思う。私は、いつも自己卑下が止まらない若者だったのでね。
逆に、私が自信満々に生きている若者だったなら、
「てめー、勘違いすんなよ!! あとで痛い目に遭うぞ!! おまえは、まだ何も知らないに等しいんだから、地に足を付けて、謙虚に生きよ」
と頭をひっぱたくかな(笑)
「自己卑下し過ぎず」、けれども同時に「驕り高ぶらない自分」をバランスよく保つって、若いほどに難しい気がする。
まだまだ自分自身がつくられている最中、つまり「工事中」で、骨組みが脆弱だから、「他者からの評価」「誰かの放った一言」「わずかな状況の変化」なんかで、有頂天にもなる一方で、すべての骨組みがバラバラになってしまうほど、落ち込んだりもする。
そんな感情の振れ幅にふりまわされる、そういうことが、若い頃にはあったように思う。
だから、グラグラと揺れる脆弱な骨組みを、それはそれとしてニュートラルに受け止めながら、ひとつずつトンカントンカン補強したり、増やしてゆくことが、即ち「今を生きることに集中する」ってことなのだと思う。
「今、このとき」さえ、あなたがあなたらしく生きたなら、それが連なって未来が自然と創造されてゆくわけだから、あなたが書いていたように、未来のことは、心配ご無用。
あなたが作らんとした「理想の建物」は、やがて立派に完成するときがやってくる。
それこそ使えるものはすべて使って、そしてあなたの責任でルールや常識なんかを、守ったり、時にうまく無視したりしながら、世界に羽ばたいてください。
***
30歳のときに、絶叫したあの頃から、20年近くが経ち、私は、スケジュールはできる限り空白にし、たったひとりで過ごす時間を、こよなく愛するようになりました。
何をしているかって?
あなたにこうして手紙を書いていますよ(笑)
人生で、これくらい意義のあることは、そんなにたくさんはないように思いますがいかがでしょう?
わたしは、今日も明日も、米を洗い、みそ汁を作り、風呂に入ります。
その「動物としての行為」に、半分はバカバカしさを、半分は愛おしさを感じつつ、今日という一日のこの瞬間、さらにまた次の瞬間、私は、自分らしい自分のままで、一日を終え、眠りにつきます。
孤独がこわくて、スース―していた20歳のころの自分を助けてあげられて、本当によかった。
さて、そんな風に、私が私らしく生きられるようになるまでには、やはり多くの「人の存在」が必要不可欠だったと思います。
もっとも身近である夫の存在はもちろんですが、私を形づくってくれたそのほとんどは、リアルにお会いしたこともない小説家や哲学者さんたちです。
多くの作家さんたちが、何も分からない私に、一冊の本というかたちで、いつも静かに寄り添ってくれ、その時々に必要な言葉を、ふっと届けてくれました。
若い頃の読書と言えば、わたしはひたすら小説一辺倒でしたが、
30歳を超えてから、「生きるってなんぞや」なんてことを大真面目に語っている人が存在することを、初めて知りました。
哲学者の中島義道さんや、池田晶子さんです。
図書館にも必ずあると思いますので、ご存知なかったら、一度手にとってみてくださいね。
よくある哲学の本は「学問・研究としての哲学書」のため、内容が硬く、読んでいて、まず日本語が理解できません。
「もうすこし、分かりやすく書けないもんかね」と、己の読解力を棚に上げて、うんざりしていたわけですが、そんな中、「哲学的に生きている『哲学人』が書いた読みやすい文章も存在する」ことを知ってゆきます。
そこで初めて、わたしは、
そうか「学問として哲学を研究し、精通していること」と、
「己が、哲学的に生きる」ということは、まったく別物なのだ。
そんなことに気づかされるのです。
上記に挙げたお二人とも、後者の「生きる哲学者」として、分かりやすい言葉で、痛快な書籍をたくさん書かれています。
ふたりとも、偏屈かつ変人。はっきり言って、めんどうくさい人々(笑) でもだからこそ、とてつもなく魅力的であり、その生き様は孤高で美しい。
きっと今のあなたが読めば、かれらの言葉の数々に、胸が打ち震えることでしょう。
だから、紹介してみました。
さらに、今回のあなたの記事で、「暇」「退屈」のキーワードが出てきたので付け加えておくと、国分功一郎さんが『暇と退屈の倫理学』という良書を出されています。ベストセラーだから、ご存知かな。
最初から最後まで、誰もが読める平たい言葉で書かれていて、「生きるとはなんぞや」ということをしみじみと考えさせられる感動的な一冊です。
もし読んだことがなければ、こちらもおすすめしておきます。
幾人かの哲学者をご紹介してみましたが、他ジャンルでも、漫画でも、リアルの人でも、SNS上の人でも、あなたのその時々の心にフィットする人々を、都度見つけて、その人の美学や哲学を、吸血鬼のようにチューチュー吸って大人になっていってください(笑)
細く脆弱だった骨組みが、しだいに太く頑丈になって、もう何があっても壊れないと感じられるようになるはずです。
***
長くなってしまいました。
書きたいことをただ書いてしまい、あなたの欲しかった言葉、知りたかった内容ではなかったかもしれず、ごめんなさいね。
最後となりましたが、あなたの文面からは、「これから自分らしく生きてやるぞ」という気概と覚悟が、キラキラとあふれていて、とてもまぶしかったです。ですから、わたしは何も心配していません。
哲学的に生きることと、一学生・一社会人として生きることの間には、大きな隔たりがありますが、自分が気分よく生きられるポジションをみつけ、人生を謳歌してください。
影ながら応援しています。
最後までお読みいただいたみなさまも、どうもありがとうございました。