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依存し合える教室を

先日、東京大学教育学部教授 小国義弘氏の講演を聞かせていただいた。また、その後直接お話をさせていただき、大変刺激を受けた。その中での学びのほんの一部ここに記録しておきたい。

今の学校教育では「教育心理学」的なアプローチから考えていくことが多い。それを否定するわけではないが、「教育社会学」の視点が足りていないことは間違い無いだろう。そういった意味で、社会学的な視点からさまざまな学びを得ることができた。その点、通説とは異なることもあるかもしれないが、その前提でお読みいただきたい。(かなり取捨選択しましたが)

大人の目が厳しくなっているから、特別支援学級に在籍する子が増えている

「普通」を規定し、普通であるかどうかを厳しく見定め、「この子には特別支援学級があっている」と決めつける。しかし、「(脳の)機能障害」と診断されたとしても、それは実は仮説でしかない。もし「(脳の)機能障害」だとしたら、”いつでも””どこでも””誰とでも”同じことが起こるはずだが、実際は環境によって違ってくることが8割ほど。つまり、それは環境によって大きく左右されることなのに、その子の中の問題だと決めつけ、排除してしまっているという現状だ。
大人の中でも特に教師はこの”排除”をかなりしてしまっている。しかも、それは善意の中で行われる。日本の教育はいわゆる”発達の厳しい子”から、いろいろな人との関わりの中で刺激を受け、学んでいく機会を奪われていると言える。

目標なんかなくせ

私は学級目標を子供達と作ることを大切にしてきた。しかし、昨年度の初め頃から、このことにも疑問を持つようになった。
学校教育目標や学級目標が全て悪だとは言わない。しかし、そこにある「こうありましょう」というメッセージはが、子供達を無意識のうちに傷つけ、思考を奪っている。果たして本当に必要なんだろうか。「どうありましょう」という目標を、学校として、クラスとしてかかげてよいのだろうか。

そもそも、目標をもって生きることが、良い生き方であるという固定概念に縛られているのだと思う。
「こういうあり方が望ましいよね」と善意で掲げたものほど、子供たちを傷つけているということを痛感した。

お互いに依存し合える教室を

自分でなんでもできるようにすることが「自立した人」のように思われるが、実はそんな人はいない。私も含めた全ての人が、少なからず依存しあって生きている。
しかし、今の社会はどんどん個別化が進み、依存しづらくなってきている、これは職場も含めた社会全体の問題としても捉えることができる。
実は、教育でも個別化がよいとは誰も証明していない。むしろ、個別化するからなんでも自分でできるようにしないといけなくなる。また、大人も、”自分でできるようになること”だけを自立と捉えてしまいがちだ。
しかし、本当に大切なのは「共に生きていく原体験」をすること。周りに依存できる教室を作ること。その中で学びが生まれてくるのであるし、それこそが社会につながる学びなのだと学んだ。

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