めーぷる

40代。女。子育て中。 「普通」を目指した結果、とんでもなく恥の多い人生を歩んできました。これからは素の自分を愛し、心が豊かになることをしていきたいと思っています。歴史、哲学、心理学、占星術、日本文化、東洋医学が好きです。

めーぷる

40代。女。子育て中。 「普通」を目指した結果、とんでもなく恥の多い人生を歩んできました。これからは素の自分を愛し、心が豊かになることをしていきたいと思っています。歴史、哲学、心理学、占星術、日本文化、東洋医学が好きです。

記事一覧

久しぶりのサボりと複雑な感情と

薬にも毒にもならない お金にもならない 一見何の意味もないようなこと そういうことをしたい

パワーワード

私に母性はない 女性的なものも足りてない 「親」という役割が向いてなさすぎて笑える でも子どもは私が絶対守る それだけは自分と約束した 足りないものばかりだけどそれだけはできると信じてる

我が強くて何が悪い

会うタイミングも自分で決めていい

外野はお口がよくまわる でも気にしない 彼らはただの評論家 責任がない気楽な人 プレイヤーは私だ

「やりたいからやる」が優勝

モヤっを流さない

嫉妬は憧れ

人間だもの

人は自分しかみていないのかも

負けず嫌い

人と違うことについての認識を変える

そういう日もあるさ

久しぶりのサボりと複雑な感情と

今日はジムに行く日だった。 でもサボった。 大人なのに。 久しぶりのサボりだった。 元々運動嫌い。 でもやってみると以外と楽しかった。 自分の体の変化を体感できるから。 昔から筋トレやランニングにハマる人々とは 馬が合わなかった。 今なら仲良くなれそうな気がする。 それなのになんでこうなった? 理由をざっくり言うと ジム側との方向性の違いというところだろうか。 自分が望んで変化するのは楽しいのに 変化を強要されて途端に嫌になってしまった。 「私が私のままでいること

薬にも毒にもならない お金にもならない 一見何の意味もないようなこと そういうことをしたい

パワーワード

キレのある強めの言葉 流行ってると使いたくなる 親ガチャ、毒親、老害などなど わりとネガティブな言葉が多い? 私がそういうものに反応しやすいだけか その言葉があらわす状態は昔から存在しているが それを端的にあらわす言葉がなかった 自分の状態や想いを代弁してくれるその言葉に 「それそれ!」と気持ちよくなる 最初はそれでよかったものの 言葉はカタチを変える 微妙なニュアンスが加わったり減ったり いつの間にかその言葉を生み出した人の手から離れたものになって ただの1ユーザーの

表裏一体

あげる、受け取る 教える、習う 話す、聞く 人間の活動は対になっていることが よくあるけれども あげたつもりがもらっている 教えるつもりが教えられている 話すときは同時に聞き手でもある どちらがどちらか分からなくなるということがよくある その一体感がとても心地よい今日この頃

私に母性はない 女性的なものも足りてない 「親」という役割が向いてなさすぎて笑える でも子どもは私が絶対守る それだけは自分と約束した 足りないものばかりだけどそれだけはできると信じてる

我が強くて何が悪い

会うタイミングも自分で決めていい

飲み会のお誘いがあった。メンバーは前の職場で数年間苦楽をともにした面々。時間を経た今でもきっと楽しい会話ができるだろうと思う。それにもかかわらずLINEをあけた瞬間から気持ちは憂鬱だった。誘われて嬉しい気持ちもある。だがトータルで見たときにマイナスな気持ちの方が勝っていた。 行きたくなければ行かなくていい。そんな当たり前のことに気づくのに時間を要した。「行きたくない」と思う心と「行かなければならない」と考えている頭が喧嘩をしていた。嫌な気持ちを引きずりながらも私は行こうとし

外野はお口がよくまわる でも気にしない 彼らはただの評論家 責任がない気楽な人 プレイヤーは私だ

「やりたいからやる」が優勝

世の中はとにかく理由を求める。 学校なら偏差値とか部活が強いとか教育理念がしっかりしてるとか。 なんで選んだの?って聞かれたときみんなそれらしい理由を並べ立てる。 他人が納得できる理由を提示できるといいみたいな風潮があって言語化苦手民としてはちょっと生きづらい。 合理的な理由がなければ異端児扱いされるってことだから。 やりたいからやる。 それ以上かっこいい言葉なんてある?

モヤっを流さない

知り合いのSNSで年末年始に小規模の同級会が行われていたことを知る。 私は呼ばれていない。 モヤっ。 なんだこのモヤっは。 じっくりメンバーをみてみる。 私が本当に仲良い人は1人もいない。 クラスや部活が一緒だった人もいたが 深い話は一度もしたことがない。 あとはこちらが一方的に知っているいわゆる学年の人気者たち。 どう考えても呼ばれなくて当たり前。 頭で考えると必要ないモヤっだったなと分かる。 だが事実モヤっを感じている私がここにいる。 モヤっを言葉に置き換えると「

嫉妬は憧れ

以前勤めていた会社にはパーフェクトヒューマンがいた。 頭が良くて、仕事ができて、コミュ力が高く、上司への根回しも上手で、外見もいい。 勝てるところなんて1ミリもない。 当時の私はそれを認められなくて盛大にその人に嫉妬した。 そしてそれはおそらく私だけではなかった。 その人にはゴシップがついてまわった。 ネタを探し回る人、その証拠探しをする人、噂を広める人、それを聴いて喜ぶ人、タイプはそれぞれだけど、全員嫉妬を拗らせたのだと思う。 そのゴシップの内容は事実だ。 でも「本質

人間だもの

好きなアイドルグループができた。 そのグループを知っている人は少なくとも私の周りにはいない。 誰かにすすめられたわけでない。 自分で見つけたのだ。 自分でと言っても厳密にはYouTubeからのおすすめである。 AI様から紹介されたことを自分で見つけたと勘違いをする私。 この便利な機能には感謝と同時に恐怖も感じる。 出会うまでの過程や探し出すプロセス。 そういった経験が抜け落ちることで私の機能はどんどんポンコツになっていっているような気がする。 そんなことを考えながらもA

人は自分しかみていないのかも

子どもの頃から繰り返し観てきた大好きな映画。 台詞は完コピしてる。 DVDがあるのにテレビ放映は必ず観る。 何度観ても飽きることはない。 中年に該当する年齢になっても新しい発見がある。 子どもの頃はある登場人物を「冷たい」と感じていた。 30代ではその子の気持ちが理解できるようになった。 この前観たときは「そういう人もいるよね」とそのシーンを観ても何の感情も湧かなかった。 どの感情が正しいとか優れているとかではない。 どの年代に感じた思いも紛れもなく私のものだ。 小さい

負けず嫌い

芸能人のSNSにあの子が載っていた。 あの子は芸能人の友達らしい。 あの子は同窓生。 昔から飛び抜けて可愛い子だった。 スクールカーストで最上位クラスにいたと思う。 あの子と私は友達じゃない。 私が一方的に知っているだけ。 可愛くて、性格が良くて、センスが良くて、友達が多くて、人気者で、私とは真逆の世界にいる。 SNSであの子を見つけたとき胸がざわついた。 あの頃とは時間も空間も離れたところにいるというのに。 おそらく私は「スクールカーストはひっくり返らない」という

人と違うことについての認識を変える

昔から人と意見が合うことがない。 私の考え方は変わっているらしい。 人はこれを「認知の歪み」とか「思考の癖」とか言う。 人と違うことは恥ずかしいこと。 そう信じるようになってからは極力自分の意見は言わず人の意見に寄せにいった。 それは単なる処世術であって、心の奥底では私の考え方は変わっていない。 むしろ誰にも叱られない場所でその癖はどんどん強化されていった。 時折そのパンドラの箱を開ける。 出てくるのはどれもモンスター級。 そこら辺のありふれた意見がつまらないものに思える

そういう日もあるさ

今日は気分がのらない日。 不安、悲しみ、怒り、マイナス思考。 感情も思考もネガティブ一直線だ。 振り払っても振り払ってもまた戻ってくる。 まるで波のように。 私が何かしたわけじゃない。 周りのことも関係ない。 たまたま今日がそういう日だってこと。 ただそれだけのこと。 このネガティブな感情と考えをどうしてくれよう。 よし、とりあえず抱きしめておくか。