生きづらいと感じるようになったのはいつからだったか。 働き始めてから? 大学で東京に出てから? 地元にいたときから? 部活?女子グループ?習い事? エピソードは沢山あるけど若ければ若いほど深刻度は浅かった気がする。 正直いつからかは分からない。 人はそういうもんだと思ってたから。 他の人も自分と同じようなもんだと思ってたから。 でも今はハッキリ言える。 とっっっても生きづらいです。 まずは「生きづらい」を言語化してくれた人に感謝したい。 なんて的確な言葉なんだろ
今日はジムに行く日だった。 でもサボった。 大人なのに。 久しぶりのサボりだった。 元々運動嫌い。 でもやってみると以外と楽しかった。 自分の体の変化を体感できるから。 昔から筋トレやランニングにハマる人々とは 馬が合わなかった。 今なら仲良くなれそうな気がする。 それなのになんでこうなった? 理由をざっくり言うと ジム側との方向性の違いというところだろうか。 自分が望んで変化するのは楽しいのに 変化を強要されて途端に嫌になってしまった。 「私が私のままでいること
薬にも毒にもならない お金にもならない 一見何の意味もないようなこと そういうことをしたい
キレのある強めの言葉 流行ってると使いたくなる 親ガチャ、毒親、老害などなど わりとネガティブな言葉が多い? 私がそういうものに反応しやすいだけか その言葉があらわす状態は昔から存在しているが それを端的にあらわす言葉がなかった 自分の状態や想いを代弁してくれるその言葉に 「それそれ!」と気持ちよくなる 最初はそれでよかったものの 言葉はカタチを変える 微妙なニュアンスが加わったり減ったり いつの間にかその言葉を生み出した人の手から離れたものになって ただの1ユーザーの
あげる、受け取る 教える、習う 話す、聞く 人間の活動は対になっていることが よくあるけれども あげたつもりがもらっている 教えるつもりが教えられている 話すときは同時に聞き手でもある どちらがどちらか分からなくなるということがよくある その一体感がとても心地よい今日この頃
私に母性はない 女性的なものも足りてない 「親」という役割が向いてなさすぎて笑える でも子どもは私が絶対守る それだけは自分と約束した 足りないものばかりだけどそれだけはできると信じてる
我が強くて何が悪い