
【短編小説】ものぐさ太郎(7)
次の日から太郎は、有職故実の学問について学ぶこととなった。
礼法については主家の小笠原家で学んだ知識や動作のストックがあったから、すんなりできるようになった。が、当時の武士の社会的地位はかなり上がっていたため、大名家の娘を娶った婿ともなれば、公家とも付き合う必要も出てくる。そのため宮中の作法やしきたりについても学んだ。
「難しいな。食べ方から何まで小めんどくさくて」
「それができるようになれば、どこでも生きていけますから。はい、次は『源氏物語』読むよ!」
綾は持っていた『源氏物語』の本を、ぽん、と手渡す。
「お、おう!」
太郎はくたびれた表情から、シャキッとしたやる気の満ちた顔に戻し、『源氏物語』の写本を受け取った。
有職故実や文学だけでなく、琵琶や琴、笙といった管弦のあそびの練習もした。
ここでも太郎は、琴の爪のつけ方を上下反対につけたり、笛の指を押さえる穴を間違えたりなど、数多くの失敗をした。が、綾に見合う立派な男となるため、少し少し基礎を覚え、自分のものにしていった。
綾とその侍女和沙の教育により、太郎の意識に変化が生じ始めた。
普段は色褪せた黒や紺の水干や素襖、直垂ばかりを着ていたが、季節によって着る服の色を変えたりするようになった。これにより、むさ苦しい下級の侍から、元の顔立ちと見た目の若さもあってか、どこぞの上級武家の若君と見間違えるほどの美青年へと変貌を遂げた。
和歌に対しての意識も徐々に上がった。『伊勢物語』などの古典を読んだことで、作る和歌に教養の持つ深みが加わった。そして、文字を習った禅寺だけでなく、公家たちの行う連歌の会にも出席するようになった。
機知と抜きん出た歌才に加え、古典や有職故実の素養、優雅な容姿、なめらかな礼法の所作、管弦のあそびといった知識を身に付けた太郎は、連歌の会に来た女性たちから、
「歌の左衛門」
と呼ばれるようになった。
太郎こと歌の左衛門は、京都とその周辺の女性たちの話題の中心となったのである。
武士としても太郎は出世した。長秀のおぼえもあり、ただの平士から、更級郡のうち三郷の小地頭となったのだ。
この件に関しては、太郎が噂話が特に好きな洛中洛外の女性たちから、「歌の左衛門」と呼ばれる人気者になったということもある。割合で言うなら7割くらいだろうか。残りの3割は、まだ長秀の推測でしかないのだが、太郎がもし貴種であったときに備えて、領地を与えておきたいという思惑もある。仮にそうなのであれば、領地を与えて本物の地頭にするし、違ったら適当な罪でも吹っ掛けて高野山に追放する心づもりでいる。
「おお、太郎か! どうした、その格好は!?」
守護の屋敷で久しぶりに会った左衛門尉は、変わった太郎の様子を見て、驚いた。格は違えど、自分と同じ地頭になったこと、いつものようなよれよれの黒い素襖ではなく、色鮮やかな重ねの直垂を着ていたからだ。
「実は女ができまして。で、いつもの黒い水干は汚いからって言われたから、こうして服を買ったんですよ」
「そうか。やっぱり女ができると変わるもんだねぇ」
我が子の成長を喜ぶ父親のような穏やかな顔で、左衛門尉は言ったあと、
「それで、その女って、誰なんだよ?」
とからかった。
「それは内緒です」
顔を真っ赤にした太郎は、おどおどした口調で返した。
「内緒か。命の恩人に隠し事はない。言ってくれたっていいじゃないかよ」
「内緒なものは内緒です」
「仕方ないなぁ……」
「そうか……」
残念そうに言ったあと、左衛門尉は何かを思い出し、
「守護様のお呼び出しがあるゆえ、積もる話はあとでしよう」
と言い残し、急ぎ足で長秀のいる部屋へ向かった。
太郎と久しぶりに会ったあと、左衛門尉は長秀と対面した。目の前にある三方の上には、黄金造(こがねづくり)の太刀が載せられている。
「よき拵の太刀ではないか」
三方の上にある太刀を手に取り、長秀は眺めた。刃紋は直刃(すぐは)。日本建築特有の少し薄暗さのせいなのか、刀身は鈍く光り、何でも斬ってしまいそうな鋭い気を放っている。
「装飾を、よくご覧なさいませ」
鞘を抜き、興味津々に眺める長秀に、左衛門尉は言った。
太刀を鞘に納めた長秀は左衛門尉から献上された黄金造の太刀をじっくり眺めた。
黄金造の太刀の鞘や柄には、皇室の紋である小さな円に十六の花弁が取り巻いている紋が入っていた。いわゆる菊花紋というものである。菊家紋やその細部には、金や螺鈿といった豪華な装飾がなされている。
「十六菊花紋に絢爛豪華な装飾。これは間違いない。やつは皇胤だったんだ」
長秀は困惑していた。まさか、自分が対面していた青年が、まさか皇室の誰かの隠し子だったとは、思いもしなかったからだ。あのとき気軽に上から目線で声をかけた自分が恥ずかしい。
(まさか、南朝ということはないだろうな?)
同時に、そんな考えも脳裏によぎった。
数年前に60年争った南朝と北朝は和解した。「和解」なので、当然北朝の完全勝利ではない。だから、まだ吉野に南朝がいる。他にも、南北朝の争いが、政策や主義主張の関係できれいに北日本と南日本に分断されていたものでなかったことから、一国に南朝勢力と北朝勢力が併存している。そのため、かつて南朝方であった在地の武士が、南朝の隠し子を育てていて、世が乱れたときにつけ込んで挙兵するときの神輿として使おうと考えていても、何らおかしい話ではない。南朝ではないが、信濃にはかつて鎌倉幕府執権の身内人の一人であった諏訪氏が、密かに北条高時の遺児時行を匿い、建武の新政に綻びが生じはじめたときに挙兵し、長秀の曽祖父である貞宗に盾突いた先例がある。信濃の民の平穏のためにも、こうした事態は絶対にあってはならない。
「実は太郎の故郷である更級郡へと行って調べてきた際、彼を育てていていたという名主の家へ行って参りました。名主の家族に話を伺ったのですが、何も答えてくれませんでした。これでは埒が開かないということで、彼らを捕え、家を捜索した際屋根裏からこのような立派な造の太刀が一振り出てきました」
左衛門尉はこの太刀が見つかった経緯について説明した。
「やはりそうであったか……」
苦々しい表情でつぶやいたあと、長秀は、
「左衛門尉、そなたには辛いかもしれないが、彼を見張って欲しい」
と少し哀しげな表情で命じた。
しばらく時間を置いて考えたあと、左衛門尉は、
「はっ……」
と頭を下げた。そのときの左衛門尉の顔は、苦しそうであった。
大内屋敷では、綾とその父盛見と対面していた。
挨拶を済ませたあと、綾の叔父でもあり育ての父でもある入道頭の目の大きな中年の侍は、一段高くなった畳の上に座布団が敷かれた場所に座っている。
「そうだ──」
何かを思い出したように盛見は言って、
「和沙から聞いているが、最近『歌の左衛門』なる男と付き合っているそうだな。清水寺で護衛がいないときに絡んできた暴漢から守ってくれて以来、この家に度々通っていると聞く」
太郎の話題を出した。
「はい。まだ至らぬところもありますが、格好よくて、風流を理解していて、純粋で、素直なお人でございます」
綾は太郎の普段の様子をそのまま答えた。
「最近御所で『歌の左衛門』信濃小笠原家の家臣の話を聞いてね。何でも、歌だけでなく、平家の公達を連想させるような美丈夫とも聞いている。父さんも興味があるんだ。良ければ合わせてくれないかい?」
育ての親のお願いに、綾は、
「承知いたしました」
と言って頭を下げる。
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