【エッセイ】下総①─柴又の帝釈天と聖地の話─(『佐竹健のYouTube奮闘記(50)』)
3ヵ月という期間は、とても長かった。
特に今年(旅の時点では2023年10月)は異常な暑さがずっと続いたから、なおさらそう感じる。
後輩二人が37℃という猛暑の中を旅している様子を見守った後は、いつもの夏と同じように、ひっそり暮らしていた。図書館で調べ物をしたり、カラオケでストレスを発散したりしながら。
※
死んだ方が遥かにマシなのではないかと思ってしまう季節が終わりを迎え始めていた10月の初め。私は旅に出た。
久しぶりの旅は、葛飾区の柴又から始まった。
なぜ、葛飾区から始めたのかといえば、意外かもしれないが、この辺りは元々下総であった。武蔵となったのは、徳川家康が関東平野にある大河の流れを変える大工事を行ったためである。
(久しぶりの関東城めぐりだ。楽しんでいくぞ)
久しぶりに自由に外出ができる喜びを噛みしめながら、私は電車を降りた。改札を出ると、寅さんの像が出迎えてくれた。
(葛飾の下町といえば、やっぱりこの人だよね)
葛飾といえば、まず『男はつらいよ』の寅さんと『こち亀』の両津勘吉だろう。この二人は葛飾の二大スターと言ってもいい。
柴又の帝釈天こと題経寺の門前町へと入っていく。
題経寺の門前町は、和の雰囲気を残した、どこか懐かしい感じの和風の店屋が建ち並んでいた。
和風と言えば川越の蔵の街があるが、それとはまた雰囲気が違う。
川越の町並みは、明治大正の感を残している。『鬼滅の刃』とか『はいからさんが通る』、『帝都物語』とかに出てくる「はいから」な帝都東京の下町をイメージしてもらえるとわかりやすい。
対して題経寺の門前町は、戦後のどこか寂しげな雰囲気を感じる町並みだ。夕方になると、逆光で真っ赤になってさらにノスタルジックな感じが増して風情がさらに増すだろう。
題経寺へとやってきた。
題経寺は日蓮宗の寺院。本尊が帝釈天であることから、この一帯の地名である柴又を枕詞につけて、
「柴又の帝釈天」
と呼ばれることもある。「柴又の」が無くても都民や松戸辺りの人には通じるが。
(そういえば『仮面ライダー響鬼』にも、ここ出てたよね)
見たのが3年前なので、記憶は定かではないが、出ていた覚えがある。
たまにレンタルしたり、Youtubeで無料配信していたりするドラマや映画、アニメを見ている。気が向いたら仮面ライダーとかの特撮も見ることがある。
仮面ライダーシリーズを時々見ていると、都内の有名なところが出ていることがある。
2006年にテレ朝で放送されていた『仮面ライダーカブト』という作品には、作中に東京タワーが出ていた。2009年に放送されていた『仮面ライダーディケイド』では、1話の方で東博が出ていた覚えがある。
『仮面ライダー響鬼』では、今いる帝釈天が出ていたことがある。明日夢がヒビキさんと、夜の題経寺で語り合っていたシーンだった覚えがある。そこでのヒビキさんは、明日夢少年の悩みに答えている身近な頼れる大人の男の人という感じが出ていた。
(やっぱり、聖地巡礼って面白いよね)
面白い。特に自分の家の近くにそうした場所があると、行きやすいのもあるが、とても親近感が湧く。そして、好きな物語のキャラクターが見ている景色と同じものを見ていると考えると、胸が熱くなる。
(あ、そういえば、お寺には『法華経』の教えを木彫りの彫刻にしたものがあったね。久しぶりに来たから見に行こうか)
題経寺へは、何度か足を運んでいる。
このお寺には、『法華経』の教えを題材にした木彫りの彫刻がある。その彫刻がとても立派なもので、いつも立ち寄ったときに見ていく。
(そういえば、お経ってぱっと見意味わかんないよね。漢字の意味合いとかで少しわかるけど)
お経と聞くと、意味も分からない漢字の羅列のように思える。だが、そんなお経ではあるが、実はお経も聖書などと同じく、物語仕立てとなっている。ただ、聖書とは違うのは、どこどこにこういう人がいて、修行をして悟りの境地に至ったという感じだろうか。もしくは『論語』のように、弟子が釈尊にこんなことを聞いたら、こんな答えが返ってきたみたいな感じだ。
『般若心経』を例にとって話すと、『大般若経』という長くてありがたいお経の要約で、釈尊が舎利子という弟子に、この世が「空」という概念でできていることを話している。
『法華経』は全部で28の章があり、仏教の教えについて事細かに語られている。
特に有名なのが、真言宗や天台宗、禅宗系の宗派で読まれている25番目の「観世音菩薩普門品第二十五」だ。この章では、観音様の救いについて説かれている。
お経が小難しい漢字の羅列としか感じられない要因として、大陸から日本に仏教が入ってきたときに、真面目でわかりやすい日本語訳が作られなかったことだろう。
ほとんどのお経は漢文である。『般若心経』に至っては、サンスクリット語をそのまま音訳しただろと思わせる部分が存在する。
仏教が入ってきたときには、まだひらがなやカタカナが無かった。そのため、仏教は欽明天皇や聖徳太子、蘇我蝦夷、藤原鎌足のように漢字や漢文を知っている皇族や貴族だけのものになりがちだった。
一応奈良時代には、南都六宗(法華・華厳・倶舎・法相など)があったり、聖武天皇の勅令で国分寺や国分尼寺が建てられたりしていた。だが、一般庶民に仏教が広まったという話をあまり聞かないことから、布教する気があったかどうかは、少し怪しい。
もし、日本仏教の黎明期から発展期に、
「お釈迦様は言っていた……。この世の全てのものは空で出来ている、と」
「お釈迦様は言っていた……。『本当に困ったときに、心の奥から観音様を念じれば救ってくれる』と」
みたいにシンプルで誰にでも分かりやすいものがあったら、平安時代に浄土教が、鎌倉時代に鎌倉新仏教(禅宗、浄土宗・浄土真宗、時宗、日蓮宗など)が広まるもっと前に、仏教は民間にも普及していただろう。
逆に謎の有り難みがあるのも、意味がわからな過ぎるところによるものが大きいのだろうが。
他にも日本の仏教がわかりにくい要因として、哲学の要素を含んでいること、インドや中国、日本の土着信仰と結びついていることなども挙げられる。だが、これらについて逐一説明していると、本筋から逸脱してしまうので、またいつか話したい。
受付で拝観料を払い、私は題経寺にある『法華経』の教えを木彫りの彫刻にしたものを見た。
木彫りの彫刻には、救いを求める人々や天人と思しき羽衣をまとった人物、龍などが活き活きとした感じで彫られていた。
こうしたものは、昔は文字の読めない民衆や地元の子どもたちに、仏教の教えを広めるためのツールとして使われていたのだろう。立派な彫刻の前に民衆もしくは読み書きを習っている地元の子どもたちが集まって、寺にいるお坊さんが一場面ずつ解説していく。そんな平和な一場面がありありと脳裏に浮かんでくる。
『法華経』の教えを木彫りの彫刻にしたものを見たあと、そのまま庭園を見て、私は矢切の渡しへと歩いて行った。
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