【エッセイ】下総③─亥鼻城─(『佐竹健のYouTube奮闘記(52)』)
数日後、私は中央線で千葉へと向かった。千葉駅から内房線の館山方面に向かう列車に乗り換えて、本千葉駅で降りた。下総編の最後で、やっと舞台は東京都から千葉県へと変わった。
駅の目の前には道があり、その向こう側には高台が見えた。
高台の上には、立派な白い五層の天守閣がそびえたっている。
高台にある立派な天守閣のあるお城こそが、下総編の目的地亥鼻城である。
この天守閣が何なのかについては、後ほど詳しく語ろうと思う。
亥鼻城の入り口前に来たときに、井戸の跡を見つけた。
井戸の脇には「お茶の水」と彫られた石碑があった。
(あ、ここ頼朝ゆかりの地なんだよね)
私はここが源頼朝ゆかりの地であることを思い出した。
安房で再起した頼朝が、鎌倉目指して進軍している途中、千葉に立ち寄ったことがあった。現地の領主であった千葉常胤は、この井戸で汲んだ水で湯を沸かした。そしてそのお湯で立てたお茶を頼朝に振舞ったことから、この井戸は「お茶の水」と呼ばれるようになったらしい。
平安時代にもお茶はあったが、武家に普及し始めたのは鎌倉時代から室町時代くらいなので、常胤が頼朝にお茶を振舞ったという伝説は、創作であると考えられている。
(千葉常胤といえば、千葉のじいさんだね)
私は去年(2022年)放送されていた『鎌倉殿の13人』に出ていた千葉常胤(演:岡本信人)を思い出した。作中では、千葉常胤は「千葉のじいさん」と呼ばれている。
初登場のし方は、途轍もないインパクトがあった。頼朝との対面時に平家方の武将の首が入った桶を持ってきたのだ。しかも、やってやったぜ、と言わんばかりの表情で。
ここに平安末期の東国武士が、いかにヤバい存在かが描写されていて、上手い演出だなと思った。しかも、このとき常胤を演じていた岡本信人の「やってやったぜ」という表情が、さらにヤバさを引き出していて、とてもよかった。
『鎌倉殿の13人』の常胤でもう一つ思い出したのだが、13人の合議制のメンバーを誰にするか話し合っているときに彼の名が出たのだが、そのとき三浦義村(演:山本耕史)が、
「じいさんはやめときましょう」
と言っていたシーンは、かなり笑った覚えがある。しかも、数十年後に起きた承久の乱の軍議で、自分が「ジジイ」呼ばわりされてキレたシーンはとても面白かった。
一応千葉常胤についての真面目な解説も付け加えておくが、彼は桓武平氏の血を引く一族の一人だ。千葉を拠点としていたことから、このように呼ばれている。源義朝、頼朝の二代に渡って仕え、主要な戦いで活躍し、千葉氏の繁栄の基礎を築いた。余談だが、頼朝に鎌倉を拠点にするよう言ったのは常胤である。
頼朝が安房で再起した経緯についても話したいが、これを話してしまうと安房編で話すネタが無くなってしまうので、下総編ではあえてしないことにする。
(さて、行きますかね)
私は木々に覆われたコンクリートの階段を登って、亥鼻城を目指していった。
亥鼻城へと着いた。高台の上には、先ほど見た天守閣があった。
天守閣は五層で、壁は白であった。この日は秋晴れで、爽やかな青空が見える日だったこともあり、爽やかな雰囲気を醸し出している。もし来た日の天気が曇りとか雨だったら、少し不穏な感じに見えるのだろうが。
(この天守閣って、城と何も関係ないのよね)
実は亥鼻城には天守閣が存在しなかった。
というのも、亥鼻城は、遺構などから、戦国時代前期の城であると考えられている。だから、櫓や天守閣といった高等な防御設備は存在しなかった。
豪勢な天守閣や櫓、門などのある城ができたのは、松永久秀が櫓のある多聞山城を築いてからである。そして織田信長が安土城を築いたことで、広く知られるようになった。
「では、戦国時代以前の城はどんな感じだったのか?」
そんな疑問が読者から出てきそうなので説明するが、室町時代の城は、土で構成されていたものだった。そのため、上の石神井城(東京都練馬区)の写真のように石垣は存在せず、土塁や堀で城を守っていた。なお、堀に関しては、水が入っていたりいなかったりする。
立地条件としては、山や台地といった標高の高い場所に多い。山や台地がない場所では、自然堤防上に作られていた。また、近くに川が流れているというのも大きな特徴だ。
ただでさえ傾斜の強い山や高台に、堀や土塁などのトラップがあちこちに仕掛けられていたのだから、攻める側もさぞ大変だったであろう。自然堤防上にあるものは、周りが沼地とか深田であったであろうから、これはこれで攻めにくい。そこに弓矢や鉄砲、投石による攻撃がこれでもかと来るから、城攻めには相手の2倍も3倍もの兵力が必要と言われているのがよくわかる。
亥鼻城は、千葉氏の城だった。
千葉氏は桓武平氏の血を引く一族で、乱を起こしたが、源頼朝や義経のご先祖様にあたる源頼信に鎮圧された平忠常を祖としている。
忠常の子孫は房総半島に根付いた。
そして、時が経って、その1人である常重が、大椎から千葉に移ってきた。これが、千葉氏の始まりである。
また、忠常の別の系統は上総を拠点としていた。この系統は代々「上総介」を名乗っていたことから、上総氏と呼ばれるようになった。『鎌倉殿の13人』で、頼朝のことを「武衛」と呼んでいた、あの上総広常の系統である。
個人の感想になるが、千葉氏が大椎から千葉に拠点を移した理由は、海が近いからではないかと勝手に思っている。海が近いので、船に乗れば武蔵や相模へとすぐに行ける。当時は今よりも海岸線が近かったから、すぐに行けたのではなかろうか。
千葉のじいさんこと千葉常胤は、源義朝や頼朝に仕えた。
頼朝が挙兵したときは、相模の三浦氏とともに味方した。
その後も平家や奥州藤原氏との戦いで活躍し、失脚した親族の上総広常の領地を継承して、有力な鎌倉御家人の一人となっていった。そして所領のあった東北や九州に一族は広がっていった。福島県の相馬市の辺りを治めていた相馬氏は、千葉氏の一族である。
室町時代にも千葉氏は名族として残った。だが、支流の馬加康胤という人物が、実力で千葉本家を滅ぼし、自らがその本家だと名乗ったことがあった。
このときに千葉氏の嫡流が滅び、馬加氏の系統が「千葉家本家」を名乗ることになる。
馬加氏系の千葉氏は、亥鼻城のある千葉市周辺を捨て、北にある佐倉を拠点に定めた。
馬加氏系の千葉氏は、戦国時代にも続いていた。だが、度重なる戦乱や内輪揉めで没落していたため、戦国時代の終わりには、小田原北条氏の勢力圏に入っていた。そして、豊臣秀吉の小田原攻めで、下総の千葉氏は歴史の表舞台から姿を消した。
なお、支流に関しては、先ほど紹介した相馬氏が大名として続いた。そして明治を迎え、華族となった。相馬氏の子孫は、令和の世にも続いている。
私の作品にも、亥鼻城は出ている。
大庭景親に敗れた義朝たちが、真鶴から安房へと渡り、下総へと渡るという展開なのだが、そのときに千葉氏の屋敷がある場所として出ている。
これは、義朝が関東下向時代の出来事を回想する一場面である。読んでいて、屋敷がどうして二つあるのか? と思った読者の方もいるので、ここで説明しておこう。
千葉氏の館が同じ場所にあるという設定にした根拠は、
「千葉氏の館が亥鼻城ではなく、実は千葉地裁の辺りにあったのでは?」
とする学説があるからだ。
千葉地裁のある辺りは昔、土塁で囲われていて、地元では「御殿跡」と呼ばれていたそうだ。
2021年に私はここ亥鼻城に初めて訪れたのだが、その説を知って、
(千葉氏の館跡に諸説ありか。なら、平時に住む場所と有事の際に籠る屋敷を分けよう)
という設定にしたのである。
また、当時の武士が城ではなく館に住んでいた、ということもある。源平期の城は、堀を掘ったり、逆茂木を置いたりするなどして、相手の進軍を阻むものであった。簡単に言えば、殺傷性のあるバリケードだったのだ。ちなみに高台にある千葉氏の屋敷は、防御に特化していて、それほど大きなものではないという感じだろうか。
『平家物語』や『源平盛衰記』などに読者のイメージする城が出てこないのは、こうした歴史的背景がある。
あと、普段小説ではメチャクチャなことを書いているが、研究により出た説を基にしている部分もあるということを、ここであえて言っておきたかった。
城のことについて話を戻す。
模擬天守の周りには、土塁があった。大庭城や蕨城のものよりも、しっかり形が残っている。
左側の木には、茶白猫が寝ていた。
茶白猫は、気持ちよさげな表情で、うとうとと木の幹に頭を置いて、平和な秋の初めの昼下がりを満喫している。
模擬天守の前には、千葉常胤の像があった。
銅像の千葉常胤は、大鎧を身に纏っていて、右手には鏑矢、左手には張り詰めた弓を持っている。
(せっかくだし、模擬天守にある博物館に寄ってくか)
私は模擬天守の中にある博物館へと入った。
(続く)
【引用文献】
佐竹健『ひとへに風の前の塵に同じ・承』「第25話 関東の義朝(24)─下総─」(https://ncode.syosetu.com/n9756hl/25/)2024年1月20日閲覧
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