【エッセイ】三河②─岡崎城─『佐竹健のYouTube奮闘記(88)』
岡崎城の入り口は、そこそこ高い建物が立ち並ぶ国道沿いにあった。
入り口の目の前には、堅牢な門が口を大きく開けている。その向こう側には、松と漆喰が塗られた白い塀があった。
(東海地方の城は、威容が違う)
関東地方にも、余多の城がある。が、遺構がこれほどまでに残っている、もしくは復元されているものは少ない。あるとしても、江戸城と川越城ぐらいなものか。その他は、ほとんど再建である。
門を入ったところを曲がった先には、お土産さんと茶屋、そして博物館があった。博物館の前には、当世具足や直垂を着たおもてなし武将隊と思しき人物が三人ほど立っていた。
(ひとまず、休もうか)
喉も乾いたし、近くにある自販機で水かお茶でも買って休もう。
そう思って茶屋にある自販機で適当に水かお茶でも買おうとした矢先、その右脇に井戸があるのを見つけた。井戸の上には滑車があって、しっかり紐と釣瓶もついている。そしてその近くに「二の丸井戸跡」と毛筆風のフォントで書かれた木の看板があった。
「井戸だったのか」
誰が見てもすぐにわかるけど。でも、城の場合は籠城に備えていくつも井戸があったそうだから、何ら珍しい話ではないのだが。
とりあえず、井戸の底を見てみる。底には水は湧いていなかった。跡とあるように、もう枯れ井戸になっているようだ。
水分補給を済ませたあと、散策を再開した。
本丸方面へ向かっているときに、二人の像が目に入った。
一人は角のある兜を被り、槍を持っているいかにも屈強そうな武将だった。もう一人は、京都の太秦にある広隆寺の弥勒菩薩みたいに足を組み、頬杖をして睨みつけている悪人相な顔の男だった。
最初の一人は、本多忠勝という武将のものである。
忠勝は徳川家に仕えていた家臣の一人である。井伊直政や酒井忠次、榊原康政と並んで徳川四天王の一人として数えられている。
忠勝のエピソードといえば、生涯戦いで傷を負わなかったことであったことであろう。忠勝は生涯57回戦場に出たが、一度も傷を負っていないという逸話がある。
さすがに生涯57回戦場に出て無傷というのは誇張もあるだろう。だが、それだけでも忠勝の持っていた戦闘力の高さを窺い知ることができる。
また、彼の持っていた槍は蜻蛉切という大業物で、穂先に止まったトンボが真っ二つになったことがその名の由来となっている。
強い戦闘要員と大業物。なんだか『ワンピース』のゾロを彷彿させる。
もう一人の悪人相な方は、31歳の徳川家康である。
なぜ、こんなにも表情が悪人相なのかというと、武田信玄に負けたときの悔しさを忘れないためである。
駿河編で話したが、家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄と戦って負け、本拠地の浜松城まで追い詰められたことがある。詳しい話は『東海城めぐり静岡編』「駿河③─徳川家康について─」に書いてあるので、そちらを読んでもらいたい。
大敗を喫して悔しかった家康は、絵師に悔しい顔を描かせ、それを自身への戒めとした。この像を「しかみ像」という。これ以後の家康は、自ら進んで好戦的には出ず、慎重になった。
家康と信玄で思い出したが、家康は信玄に特別な思い入れがあったように感じる。長篠の戦いで没落し、天目山の戦いで滅びた武田家の遺臣を密かに匿ったところからも何となくであるが、そんな感じがするのだ。
極めつけは、甲斐武田家を残そうとしたことだ。
武田家の傍流にあたる穴山梅雪という人物に武田の名跡を継がせようとしていたからである。また、梅雪が殺され、武田家再興計画が頓挫してからも、自身の息子である信吉に武田の姓を名乗らせて再興させようとした。だが、その信吉も早逝したため、武田家再興は水の泡となってしまった。
また、家康の出た松平氏は、清和源氏の新田流と言われている。新田氏の一族の中に徳川(得川とも)某がいて、そこから出たのが松平氏で、家康の系統はその分家と伝えられている。ちなみに近年の研究では、家康は新田源氏ではなかったのでは? と言われている。
対して信玄は、清和源氏の血を引く甲斐武田家の正統後継者である。
源氏(よくわかんない)と本物の源氏。当時は血や権門への信仰も現代の比ではないほど強かったであろうから、平安時代から続く本物の源氏の末裔ともなれば、それだけでもかなり貴い存在だった。だから、源氏の端くれもしくは源氏を名乗っていた家康にとっては、本物の源氏でありかつ知略や民政にも優れていた信玄が眩しく見えたに違いない。
敗北で自身を成長させてくれた人。「本物の源氏」という自分にはない物を持っていた人。そんな感情を家康は持っていたのだろうか。本当のことは家康にしかわからないから何とも言えないが。
余談だが、梅雪が殺された理由は「家康に似ていたから」だそうだ。
二の丸の能楽堂を見たあと、そのまま本丸方面へと向かった。
本丸と二の丸の間の馬出しというか曲輪の間には堀があった。その堀の脇には、見事な石垣が積まれていた。苔むしているところがなお、古城特有のわびさびを強く引き出している。
(しかし見事な石垣だこと)
私は対岸にあった石垣を見て、そんなことを思った。
形の不揃いな自然石を上手く崖に沿って葺いている。加えて、石垣の石にむすコケがいかにも古城という感じを出していて、わびさびを感じる。
(そういえば、石垣の積み方にもいろいろあるんだよね)
私は石垣の積み方が一種類だけでないことを思い出した。同じように見える石垣でも、城によって違う。
たとえば同じ家康の城である江戸城の石垣の石は、うまい具合に加工されているものだった。あと、私の記憶では中学生のときに見た大阪城の石垣(徳川時代のもの)も同じ感じだった覚えがある。
対して岡崎城の石垣は、何も加工しない石の形状を利用して積む積み方であった。
(こりゃ、超がつくほど難しい方の積み方だな)
自然石をそのまま積み上げた石垣を見て、私は中学のときに見た『鉄腕DASH!』のDASH島の企画を思い出した。内容は、島の開拓の前線基地である舟屋の土台作りだったろうか。
このときにTOKIOと『鉄腕DASH!』のディレクターは、石垣職人から石を積む伝統的な技術を教えてもらった。だが、実践してみると、TOKIOのメンバーとディレクターは、なかなか上手に積めずに苦戦して石を積んでいた。もう10年以上前の話なので、どこまで私の記憶が正しいかわからないが。
この様子をテレビのモニター越しに見ていた当時中学生だった私は、お城の石垣は、こうした苦労と繊細な技術の結晶の賜物だったんだな、と思った。加工しない石を積んで形にするというのは、一見単純そうに見える。だが、実際積んでみるとそう上手くいかない。だから、積み上げられた石が崩れないため、どのように石を積めばいいかを考える必要があるのだ。
石垣の美しさは、こうした職人の繊細な技術と苦労の賜物なのである。
石垣や堀を見ながら、私は二の丸と本丸の間にある曲輪を繋ぐ土橋を渡った。
二の丸と本丸の間にある曲輪へと着いた。曲輪と本丸の境からは、先ほどと同じような石垣と堀があった。そしてその対岸にある本丸には、四層の天守閣が樹木の向こう側から顔を覗かせている。
このまま本丸を目指そうとしていたときに、腰掛け石があったのを見かけた。腰掛け石には、月代を剃った中年男性とまだ沿っていない少年の像があった。
像の方へ寄ってみてみる。中年男性の像は、やはり時代劇や大河ドラマでよく見るビジュアルの徳川家康であった。そして少年の方は、竹千代とあった。幼少期の家康である。
(岡崎城って、家康が生まれた城なんだよね)
私はこの事実を思い出した。
家康といえば、長らく駿河や遠江で生活していたことから、静岡県の出身だと思っている人もいるだろう。意外かもしれないが、家康は三河国岡崎、現在の愛知県岡崎市の出身なのである。
家康は6歳のころまでここ岡崎で暮らしていた。3歳のときに、松平家の家臣で母の実家でもある水野氏が織田方に着いたときに、母とは生き別れた。
6歳のときに本来今川家の人質になるはずだったが、いろいろあって織田家に行くことになってしまった。このときに家康は三河国岡崎を離れ、尾張国へ移された。
尾張で2年間過ごしたあと、人質交換で今川義元のいる駿河へと送られた。ここで義元の師匠でもある太原雪斎から軍学などといった武将に必要な教育を受けた。
そして松平元康と名乗り、今川家のいち武将として義元に仕えた。だが、ここでも家康の運命は大きく変わる。
永禄3(1560)年に上洛をしようと尾張を攻めた義元が、尾張で織田信長の軍勢に討ち取られた。かの有名な桶狭間の戦いである。
義元が負けたあと、若き日の家康は三河の岡崎へと戻った。そして今川家から独立し、三河のいち大名となった。そして浜松へ拠点を移すまでここ岡崎を拠点とすることになる。
家康像を見た私は、門の跡の石垣に咲いていた彼岸花を見て、本丸へ向かった。
(続く)
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