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家康は息子の信康を殺して、見事に成長してしまった

徳川家康が、執念深く武田に取られた領内の城を取り返すべく、がんばっていることで、武田勝頼はいらつき、家康の失脚を目指し、築山殿から跡取り息子の信康を武田方に寝返らせた、という。 築山殿、信康事件といわれる、この件が起こったのは1579年。 勝頼からすれば、家康はマジにうざい。信康が家康を追い落とすことができれば、勝頼は信長に対し大きな防衛ラインを築くことができる。 すでに信長は天下人の地位にあったが、各地で反乱の動きが相次ぎ、信長の目線でいえば、あのおとなしい家康の息子

    • 日本のコミュニケーション戦略は織田信長に始まり、徳川家康によって破壊された

      現代のビジネスでは、コミュニケーション戦略は大切だとされる。顧客、メディア、社会などを相手にどのようにコミュニケーションを図るか。 その戦略を効果的に使って、効果を上げたのは日本では織田信長。 ダントツのコミュニケーション戦略家。 豊臣秀吉も、民衆参加型のイベントプロデュースで知られるし、太閤人気を生み出したことで、コミュニケーション戦略家といえるが、信長には劣る。 徳川家康は、もともとはぱっとしない普通の人だったように思われるものの、彼が置かれた環境は、何でも先入観な

      • 北条義時の御家人統制と権力拡大のスゴ技 三浦義村は盟友

        北条義時、父時政とは全く違う政治戦略家です。頼朝がいたころは、家の子として、 大きな政治的な実績はなかったのですが、頼朝死後、時政の政権奪取から、力をためます。 時政の暴走が始まると、うまくその動きを利用し、時政を追放、追放後は、さらに巧みな政治を進めることになります。 その動きが巧みです。  時政追放後、北条の名前を前に出すのはやめて、尼御前(頼朝未亡人、北条政子)を政治の前面に押し出します。  巧妙なのは、「頼朝公が出した土地の権利などは、そのまま、大きな罪を犯さ

        • なぜ、北条義時は時政を殺さなかったのかを考える

          自分の姉の子、孫を容赦なく殺してきた北条義時も、さすがに父時政を殺せなかった。 なぜ?  後に、鎌倉を取り囲む相模と武蔵の両国は、鎌倉殿が直接支配する国として、固定されますが、それまでは、有力御家人が割拠する大切なエリア。 時政が比企を殺し、政権ナンバーワンを獲得したあと、武蔵国の支配に乗り出したのは当然ですが、そこには、軍事リーダーを務める畠山という自分の娘婿の勢力圏。本来、姻戚関係を結ぶことで家の勢力圏の連携を図るのですが、北条は違いました。 時政は後の妻のりく(

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          北条時政に政権を奪われた頼朝(鎌倉殿)の5つのミス

          頼朝は源家将軍の維持(サステイナビリティ)について、手抜きが多かった点を説明します。 https://youtu.be/bDC_tVEtdYI   1.         北条時政を放置したこと 富士の巻狩での頼朝暗殺事件の黒幕とされながら、政権の安定性を考え、時政を放置したのが後々に響く   2.        弟の範頼を誅殺したこと  幼い頼家を支援できる弟範頼を北条の仕掛けによって簡単に殺し、頼家を支え、守る大切な力を自ら潰した   3.        2代目頼家の不十分

          北条時政に政権を奪われた頼朝(鎌倉殿)の5つのミス

          北条りくにマインドコントロールされた時政の鎌倉殿潰しが始まる

          鎌倉殿暗殺未遂と範頼殺害:北条りくにそそのかされた時政の仕業か     いいおじさんの時政は、後妻のりく=牧の方にマインドコントロールされいた?!     そうでなければ、いいおじさんの時政の豹変は説明できない      テレビドラマでの時政のダースベイダーへの変身がどうなるか     りくが時政をそそのかし、マインドコントロールするにいった理由     頼朝が信頼しているのは、梶原と比企の2名。この二人は後に頼家後見人に指名される。北条時政は入っておらず     

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          頼朝と義経のコラボが日本初の軍事政権を生み出した

          義経と頼朝が仲違いしていなければ、歴史はどう転がっていたか。 後白河法皇という触媒の存在も大きい。他の「治天の君」では。こうはなっていないはず。 たった10年で頼朝は、日本全国から28万騎を動員できる軍事力をもつに至ったというのはすごいとしかいいようがありません。 3つのステージで頼朝の成長戦略を振り返ります。 すると、そこに義経がいるんです。

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          頼朝の特命を京都で果たした北条時政:ダークサイドに落ちる前の話

          北条時政はワルです でも、いい時代も 源頼朝の死後、ダークサイドにおち、鎌倉政権を奪う北条時政。 テレビドラマのイメージはいい人ですが、孫の将軍を追放、義理の息子や政敵を「卑怯(ひきょう)な」やり方で殺し、権力を握ります。 今から見たら、人望ゼロ、同じ政権簒奪タイプでも秀吉とはタイプ正反対です。鎌倉という時代が野蛮といえばそれまでですが。 そんな彼ですが、頼朝が軍事政権を樹立する過程では、大変重要な役割を担って、成功を収めています。何をしたのか。 頼朝が目指した日本初の

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          時政に倒された 梶原景時 比企能員 源頼家 畠山重忠

          日本史上初の武家政権の源氏将軍から、その権限を奪ったのは、北条時政。 織田政権を簒奪した羽柴秀吉のる前例は、北条時政。義時はその後継者。 時政は、あの世で、秀吉と話が盛り上がっているはず。 とにかく、時政は、手段を選ばない、殺人による政権奪取を重ねた。 某ドラマの穏健な見た目からは想像できない。 義時は、親父さんの力を奪って、鎌倉殿の権限を執る=執行者になった。 ちなみに、鎌倉殿は武士の親分、征夷大将軍は後付けの官職、だから、鎌倉幕府が倒れたあと、新たな武家のルールを作

          時政に倒された 梶原景時 比企能員 源頼家 畠山重忠