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日本のコミュニケーション戦略は織田信長に始まり、徳川家康によって破壊された

現代のビジネスでは、コミュニケーション戦略は大切だとされる。顧客、メディア、社会などを相手にどのようにコミュニケーションを図るか。

その戦略を効果的に使って、効果を上げたのは日本では織田信長。
ダントツのコミュニケーション戦略家。

豊臣秀吉も、民衆参加型のイベントプロデュースで知られるし、太閤人気を生み出したことで、コミュニケーション戦略家といえるが、信長には劣る。

徳川家康は、もともとはぱっとしない普通の人だったように思われるものの、彼が置かれた環境は、何でも先入観なく吸収する彼の持ち味が幸いして、ありえないぐらいの成長を遂げ、かつ、恵まれた事業環境にあって、天下を取ることができた。

もちろん、家康に相当な苦労と努力があったことは間違いない。むしろ、武田信玄や源頼朝の勉強の成果も大いに彼の天下取りに影響した。

さて、本論は、信長のコミュニケーション戦略。

前提になるのは、信長も、相当の努力家、さまざまな経験を生かして成長を続けた人。持続的成長を人にも当てはめると、まさにサステイナブルな人。

信長のコミュニケーションの凄みは、彼の事業で次のように出てくる。

ー 足利義昭を奉じ、京都に上り、征夷大将軍にし、彼との間で政権合意を書面化したこと。どんな約束をしていたのかを文書化するのは優れたコミュニケーション。

ー その義昭、おれが将軍だ、おれが政治を行うと信長との合意に背き、勝手なことを始める。これに対し、信長、さらに行動制限を加える。これもまた公開する。すごいのは、全国のキープレイヤーに要望書を配ったこと。

ー 義昭、信長にばれていることを知りながら、信長方位網をこしらえ、信長を苦しめるが、ついに武田信玄が上洛軍を始めたことで、政権パートナーを信長から信玄に変えることを決意、本気で信長と対決する。信玄の死でその構想は破綻するが、信長、意固地に信長と対決する義昭を辛抱強くこらえ、勅命によって和解する。

ー さらに、義昭が信長に叛旗を翻し、信長、義昭を追放。事前の周到な情報公開が幸いして、信長への非難は起こらず、信長は義昭の抜けた室町の政権オフィスを継承する。義昭は毛利に庇護され、将軍としてスタッフ100人で反信長活動を続けることになるが、政治的インパクトはゼロ。

ー この時代に、口コミでのコミュニケーションを強化。信玄の西上作戦では、同盟者である信長の同盟者徳川家康の領地に侵攻したことで、信玄けしからんの非難を上杉謙信にぶつけ、自分の怒りを広く公開している。

ー 信玄死後は、勝頼では武田はもう終わりだ、などとネガティブ広報を展開。そういう信長も、信玄の西上作戦では、まったく情報を発信せずに、黙って信玄の動きを見ていたことが、逆に興味深い。手のうちは見せないというところか。

ー本願寺との10年戦争を終了させた信長、本気で現代風のソーシャル・ネットワーキングのオペレーションを本格展開する。織田軍団をアピールする天皇に対する軍事パレード、さらに形を変えたパレード。さらには、本願寺戦争が終わり、安土城の位置つけを信長宮殿に変え、ライトアップや外国宣教師を団体として招待するほか、信長自身が案内人になって、有料の安土城オープンハウスを行うなどした。

ー大衆に向けたこうしたイベントプロデュースは、信長の面目躍如。信長が意図したのは、政権支持者を増やし、敵対する各地の支配者への織田軍のプレッシャー、天下を支配するのは織田信長だという認知を高めること。

信長のこうしたコミュニケーション戦略の効果を真似したのは、秀吉。さまざまな場面でのコミュニケーションを高め、太閤人気を生み出す。

家康、このひとは、ソーシャルネットワーキングはまったくダメ。今の時代なら、絶対に政権を取れない人。信長はもっとも民衆の支持を得て、政治家ナンバーワンのインフルエンサーになっているのは間違いない。



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