北条義時の御家人統制と権力拡大のスゴ技 三浦義村は盟友
北条義時、父時政とは全く違う政治戦略家です。頼朝がいたころは、家の子として、 大きな政治的な実績はなかったのですが、頼朝死後、時政の政権奪取から、力をためます。
時政の暴走が始まると、うまくその動きを利用し、時政を追放、追放後は、さらに巧みな政治を進めることになります。
その動きが巧みです。
時政追放後、北条の名前を前に出すのはやめて、尼御前(頼朝未亡人、北条政子)を政治の前面に押し出します。
巧妙なのは、「頼朝公が出した土地の権利などは、そのまま、大きな罪を犯さない限り、何も変更なし」とします。畠山重忠の冤罪のようなことはしないという意味もこめられているとみるべきでしょう。
1209年に実朝が従三位になると、家の政務を見る政所の設置が認められます。義時は、この政所別当になります。そこで、提案したのは、守護の定期交代制の導入です。要は、一度守護になると地位は安泰、本来やるべき仕事をサボる連中が増えたということです。
この提案はインパクトがデカい。働きが悪いとクビ、ちゃんとやっていても守護の交替でお金が手に入らなくなる。
義時は、この提案が通るとは思っていなかったのでしょうが、実朝は「やめておけ」という態度。
御家人、特に現役守護、守護狙いの連中からは、「ふざけるな、義時、何様だよおまえ、鎌倉殿でもないだろ!!」
義時からすれば、叛乱分子をあぶり出すのが狙い。
思ったとおり、頼家さま(前の鎌倉殿)の息子をかついで、義時を追い出せ!という動きが起きてきます。
思うツボ。当然鎮圧されますが、ここで思わぬものが出てきます。
侍所(軍事、御家人監督)の長官である和田義盛の息子がこの動きに絡んでいることが判明したのです。
和田義盛は、手を尽くして息子たちを救済するために動きますが、義時からすれば、義盛を追い出す絶好のチャンスです。いうなれば、軍大臣の息子が反政府の活動に関与していたとしたら、その父親は、責任問題が生じます。
今なら、大臣辞任です。和田義盛は、辞任しなかった。
むしろ、自分の地位をたのんで、「小四郎(義時)、あいつらに悪気はなかったんだ、おれが言い聞かせて、悪いことはさせない、許してやってくれ、」と義時に泣きついたかどうか・・
義時は、多分、ここで裏の作戦を立てた。義盛がどんな態度でどんな行動を起こすのかわからない、そこで盟友の三浦義村に、義盛の相談相手になってやってくれ、と話を持ちかけたのでしょう。逆に、義盛が義村に頼んで義時にどうしたら許してくれるのか?ぐらいは聞いてきたかもしれません。
義時、ここは退けません。守護の定期交代制で提案が通らなかったこともあり、ここで弱腰は見せられない、強気で義盛に接し、我慢できなくなった義盛は、義村の力を借りて兵をあげることにした。
義村、どたんばで裏切り、義盛は2日間鎌倉を燃やす合戦を繰り広げ、討ち死にします。
義時、にやりです。彼が侍所の長官になります。
時政のころは、殺すか殺さないを決めて、殺す行為に出る。義時は、御家人の反応を見ながら、手を決めて動く。競合する御家人はみんな始末し、北条に盾突く御家人は消えました。
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