北条時政に政権を奪われた頼朝(鎌倉殿)の5つのミス
頼朝は源家将軍の維持(サステイナビリティ)について、手抜きが多かった点を説明します。
https://youtu.be/bDC_tVEtdYI
1. 北条時政を放置したこと
富士の巻狩での頼朝暗殺事件の黒幕とされながら、政権の安定性を考え、時政を放置したのが後々に響く
2. 弟の範頼を誅殺したこと
幼い頼家を支援できる弟範頼を北条の仕掛けによって簡単に殺し、頼家を支え、守る大切な力を自ら潰した
3. 2代目頼家の不十分な支援スキーム
頼朝の頼家支援は、まったく不十分なのは、上記1と2もあるが、後見として、梶原と比企を当てたのはよかったが、頼家体制の仕組みとしては全く不十分、
頼家を守る梶原は、すぐに御家人の解職請求をうけ、頼家は守りきれず、追放、北条に殺され、比企と北条の対立を招いた
4. 比企を頼家後見としながら、北条家を放置
比企を頼家後見に指名しておきながら、北条時政に比企の後見をぶちこわすチャンスを与えたこと。特に、北条は、秘書役としての義時もおり、時政の政治的な基盤をそのままにしておいたのは致命傷になった
5. 不十分すぎる御家人ガバナンス
梶原が頼朝とツーカーとなって行われていた御家人の統制は、頼朝なきあと、梶原追放で瓦解、御家人は好きに動けた。これは、北条時政の政権簒奪を促し、有力御家人は次々と殺され、北条の天下を助ける結果となった。
頼朝のサステナビリティの失敗は、後世、徳川家康の絶好の教科書となり、家康は自分の死後の徳川家のサステナビリティについては、完璧ともいえる体制と死後動き出しかねい有力大名(頼朝の時代は御家人)が全く動けないように手を打ち、戦国から統一期に力を増した寺社勢力に抑え込み、さらには前の支配者の豊臣家を完全に抹殺し、社会進展の芽を摘むことも手当している。
頼朝の不十分なサステイナビリティはすぐに崩壊、北条義時が父の時政・りくの夫妻を追放した後に、北条の本家(得宗とよばれる)のサステナビリティとして確立された。