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【短編小説】追憶の色彩
短編小説:追憶の色彩
追憶の色彩
西暦21XX年。人類の95%が、完全仮想現実空間「ネオスフィア」で生活を送っている。
現実世界は「オールドワールド」と呼ばれ、デジタル化を拒む少数の人々が暮らす、忘れられた場所となっていた。
アオイは、ネオスフィアのシステムエンジニアとして勤続10年目。彼の役割は人々の意識をデジタル空間に接続する、神経インターフェースの保守。
完璧に設計された仮想空間。
人々は理想の姿で暮らし、苦痛や悲しみ、孤独、すべてがプログラムによって最適化されていく。
アオイには、その光景がどこか異様に見えた。完璧な仮想空間に、彼は次第に吐き気のような違和感を覚える。
破格の給与を得てしても、彼の心は日に日に虚ろになっていく。
デジタルの海に漂う無数の意識を見守りながら、自分もまた、どこかに流されていく不安を感じていた。
疲れた身体を引きずり歩く彼の目に飛び込んだのは、都市の片隅でひっそりと佇む美術館。『実物展示・最後の美術館』と書かれた看板が、どこか懐かしい温もりを放つ。
わずかな埃が舞う静寂の館内。
色彩を失いかけた一枚の絵画の前で、アオイは立ち止まる。
濃紺のドレスを纏う若い女性の肖像画。
その微笑みには、彼の孤独を包み込むような深い慈愛が満ちている。彼女の瞳は深い海を湛え、見る者の心を吸い込んでいく。
アオイはその場から動けなかった。何かが胸の奥でざわめき、言葉にならない感情が押し寄せる。
それは、恋に似た感情だった。
「素晴らしい作品ですね」
美術館の管理者、カナエが声をかけてきた。
「19世紀末の作品です。不思議と、人々自身も気づかない感情を引き出すような絵なんです」
カナエはアオイに微笑むが、その笑顔には仄かに影が宿る。
彼女が誰にも言えない秘密。
経営は破綻寸前。しかし、美術館だけは守りたい。この肖像画は最後の切り札。
「実物」に触れる価値を知る者として、カナエには譲れない思いがあった。
それからアオイは、美術館に通い始める。
仕事でどんなに疲れていても、恋人との逢瀬のように肖像画の前で佇み、語りかけ、時には黙って見つめ合う。
何故こんなにも惹かれるのか、説明できない生身の感情。
肖像画を見つめるアオイ。その背後から、カナエが呟く。
「美術館を閉鎖せざるを得なくなりました。この絵もデジタル化されて、ネオスフィアの美術館に収蔵されます」
アオイの心臓が凍りつく。
「そんな……デジタルの複製なんかじゃ、意味がない」
間を置いて、カナエは続ける。
「ただし、美術館ごと買い取ってくれる方がいれば……」
心が揺らぐ。けれども、デジタル世界の富には何の価値もない。そう気づけたのは、この絵に出会えたから。
アオイの中で何かが動いた。10年間のエンジニア生活で貯めた資産は、決して少なくない。
「買います。僕の、全財産を投じても」
カナエの瞳に、勝利の色が浮かぶ。闇組織との取引で得られる金額には及ばずとも、借金の返済には十分な額になるはず。
しかし――。
取引当日。美術館でアオイを出迎えたのは、警察の包囲網。
カナエは美術品不正取引容疑で逮捕され、彼女の借金や闇組織との繋がりも、次々と明るみに出た。
「この絵は3年前、美術館から盗難された作品です」
警察官の冷たい声がアオイの胸を貫き、全身から血の気が引いていく。
彼が命を賭けようとしたものは、不正な手段で手に入れられた盗品だった。そして同時にこの絵への執着こそ、自分自身への問いかけだと気づく。
最後に許された面会で、カナエは意外な言葉を残した。
「あの絵には、確かに特別な力があったわ。でも、それはあなた自身が持っているものよ」
その言葉は、アオイの心に鋭く突き刺さる。
自分が肖像画に見出した魅力は、自分自身への渇望だ。
デジタル世界での違和感や、アナログな実物への執着。それらすべてが、自分らしさを取り戻したいという無意識から生まれていたことを。
肖像画は本来の美術館へ返還され、アオイの野望も潰えた。けれども、確かな変化が起きていた。
予定通り、アオイはネオスフィアのエンジニアを退職。破格の給与も、社会的地位もすべて手放した。それでも後悔はない。
彼が本当に望んでいたものは、完璧なデジタル複製ではない。不完全でも魂が宿る現実世界で、自分らしく生きること。
今、アオイはオールドワールドの片隅で小さな工房を営んでいる。デジタル化される前の古い機械や道具を修理する仕事だ。
収入は以前の何分の一にも満たないが、彼の心は確かな充実感で満たされている。
時折、本来の美術館で肖像画と再会することもある。今では彼女を見るたび、かつての切なる思いはなく、穏やかな感謝だけが心に広がる。
それはすべてを失うことで得た――かけがえのない真実だった。
アオイは今、不完全な世界で生きている。それでも、確かな手応えと温かさに満ちた人生だ。
彼女が微笑むように、自分もまた、不完全な世界で微笑むことを覚えた。
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この短編小説は、『すべて失われる者たち文芸賞』に参加します。
主催者:花澤薫さまの記事はこちらです。
Press Walkerの記事はこちらです。
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