私の中の…
書評:谷崎由依『藁の王』(新潮社)
表題作「藁の王」について論じよう。
表題作が(一部の純文読みの間で)話題になったのは、帯にもあるとおり、作者自身を思わせる「小説家」が主人公であり、その葛藤が描かれているからであろう。
『小説家としてデビューしたものの著作は1冊だけ、
しかも絶版。そんな私が関西の巨大私立大学で創作を教えることになった。
小説家としての先行きへの不安や夫との対立。
動機も目的もさまざまな学生たち……執筆はますます行き詰まり、
教え子たちも隘路にはまり込んでいく。
私はなぜ小説を書いているのか一一
教師としての自身の経験を元に、小説と格闘する人々を
描いた表題作の他、女性と世界の葛藤を浮き彫りにする作品集。』
端的に言って、私は「男性原理」の人間なので、『女性の世界』の部分については、わざわざ語るほどの多くを持たないので、ここでは「書く」という部分において、本作について感じたことを書いてみたい。
主人公は「小説を書くことの意味」を、一応のところ確固として持っている。ところが、それを他人っである学生たちに強いることが、はたして正しいのかと疑問に感じてしまう。まず、そこに葛藤が生じてしまう。
「書く」という行為は、本来ならば、どこまで行っても「個人的」なものであって、書き手は書き手の中にしかいない「理想の読者」に向けて何かを書くし、それでいい。
しかし、「理想の読者」は作者の中にしかいなくても、それに近いような「良い読者」が作者の外に、つまり現実に存在していて悪いはずもない。つまり、現実にも「良い読者」がいるのはありがたいことだし、書き手はそうした読者を求めるものである。それが人情なのだ。
しかも、これに「経済原理」がからんでくる。
物を書く行為は、ひとまず書き手の中の「理想の読者」さえいれば成立するもので、そこで完結することも原理的には可能だ。しかし、前述のように、外にも「良い読者」がいるに越したことはないし、そのおかげで、それが商品価値を持つこと、金銭的に目に見えるかたちで、自分の書くものの価値が「高く評価される」のなら、客観的手応えの感じられるし、それは喜ばしいものであるに違いない。
だが、自分の中さえ思いどおりにもならないのに、まして自分の外は、自分の思いどおりになどならない。
自分の外には「理想の読者」がいないばかりか、「良い読者」よりも「期待はずれな読者」の方が多いだろうし、そもそも「期待したほどの読者が存在しない」という現実の方が圧倒的に多い。
だから「職業作家」になった者は、しばしば「自分の中の理想の読者の求めるもの」と「市場の要求するもの(理想の読者ではない、多くの読者の要求するもの)」との間でもがき苦しむのだし、そのあげく「自分の中の理想の読者(作家的良心)」を抹殺したり、こっそり変造してみせたりすることになる。
本作「藁の王」における主人公の「小説家としての葛藤」も、結局のところは、そのあたりの兼ね合いの問題である。
物書きとして、まず「自分の中の理想の読者に向けて書きなさい」と指導するのが本筋だと理解しながら、しかし「学校教師と学生」という「資本主義的経済原理」の入り込んだ関係においては、はたして「私の正論」を押し付けることが正しいのか、それとも「お客様の求めにも応ずるべきなのか」と迷い、そこに葛藤が生じるのは当然である。
極端な話、「悩んで悩んで、何も書けなくても、それで良いよ」「悩んで悩んで、それで自殺したって良いよ」というのが「物書きの論理(良心)」なのだが、それを「学校教師」という立場が許さないので、主人公は悩まざるを得ないのだ。「ただそれだけ」の部分が、ここにも確実にあるのである。
もちろん、「物書き」全般と「小説家」という個別例の間には、多少の技術的な差はある。評論と小説のあいだの差が大きく、詩と小説の間の差が小さく見えても、しかしそれは一般的なイメージであって、そこに本質的な違いはない。
だからこそ、主人公の、いっそ技術的なことだけを教えていればいいだけなら、こんなに気楽なことはないのに、という苦しみに、多くの人が共感できるのだ。
だが、小説家の、物書きの本質は、そうした「表面的な技術」にあるのではなく、「世界との向き合い方」にあるのであり、そこに届かなかった者の書くものは、当人に自覚はなくても「商品としての小説」であって、言わば「小説のレプリカ」に過ぎないのである(無論これは「評論」でも「詩歌」でも同じである)。
だから、本作を「小説書きあるある」みたいな感覚で読むしかないような読者は、そもそも物書きには向いていない。
その人が、何を書いていようと、仮に売れっ子であろうと、その人の書くものは「レプリカ」にすぎない。「レプリカ」にしかなりようがないのだ。
しかし、この世の中では、むしろ多くの「レプリカ」が求められており、現に喜んで消費されているのだから、それを作ること自体は、何も悪いことではないし、恥ずべきことでもない。
ただ、そのあたりの自身の事情について自覚が無いという点については、いささかお粗末で、見ている方が、つまり他人にとって恥ずかしい、ということでしかない。
「小説を書く」とは、どういうことなのだろう。
それは所詮、個人的な問いでしかなく、そこに正解などあろうはずもないのだけれど、しかし、無限に存在する個々の「過渡的な回答」に、ある種の浅深があるというのもまた事実であろう。つまり「読むに値するか否か」の程度に、たしかに差はあるのである。
しかしまた、読者の能力が低ければ、そこに差などというものは意味を持ちえない。
そこに意味を与えてくれるのは、結局のところ「私の中の理想の読者」でしかないのであろう。