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ヴァーツラフ・ハヴェル 『力なき者たちの力』 : 「嘘の生」と闘う〈文体〉

書評:ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』(人文書院)&  阿部賢一『100分de名著 ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』』(NHK出版)

『力なき者たちの力』の訳者である阿部賢一も指摘しているとおり、ハヴェルの文章には、独特のクセがあって少々取っつきにくい。しかし、これは見逃してはならない重要な点であり、これを無視してハヴェルの思想を理解するのは不可能である。

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ハヴェルはチェコスロバキアの裕福な家庭に生まれたが、第二次世界大戦後、祖国が社会主義国家となったため、国家の干渉によって、行きたい学校に行けず、就きたい職業に就けない、という苦い経験を強いられた人である。
社会主義の理想は、差別のない平等な社会だから、金持ちが自分たちだけ好きに生きることを、決して容認しない。逆に、金持ちだからこそ、実学を学び、額に汗する労働に従事せよ、お前たちは特権階級じゃない、ということで、金持ちの子弟であるハヴェルは、政治的な抑圧を受けて育った。

チェコスロバキアが、第二次大戦後に社会主義国家になったのは、大戦勃発前、ヒトラーの要求に妥協した「ミュンヘン協定」によって、イギリス、フランス、イタリアに裏切られた、という意識があったからである。つまり、チェコスロバキアは、ソ連によって無理やり社会主義化させられた国ではなく、自由主義体制国家の現実に失望し、社会主義の理想に期待して、社会主義国家体制を選んだ国だったのだ。

ところが、やがて社会主義体制の通弊として、経済が疲弊し始める。みんな平等に分配されるのなら、自分が頑張らなくてもいいや、ということになるからだ。
そこで、それまでは力づくで平等平板化を強制してきた政府は「人間の顔をした社会主義」を目指す、という方向転換をはかる。要は「画一平等主義の強制」ではなく、「個人が自身を表現して、みんなの社会を活性化させる、本当の意味での社会主義」を目指そうとした。これが「プラハの春」である。

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ところが、ソ連をはじめとした社会主義陣営(東側陣営)は、これを許さなかった。
すでに資本主義体勢(西側陣営)との「東西冷戦」下にあった世界において、チェコスロバキアのこうした方向転換は「西側化」と理解されたからだ。
「プラハの春」は、ソ連軍主導のワルシャワ条約機構軍による軍事介入により潰され、その後は傀儡政権による「(社会主義への)正常化」が行われ、以前よりもまして窮屈な、ソ連式の社会主義が押しつけられることになった。

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こうした激動の時代の中で、「真実の生」に生きることを掲げ、「嘘の生」に生きることを拒絶したのが、ハヴェルであった。
ハヴェルの抵抗は、社会主義体勢の本家本元であるソ連自体が経済的に傾いて、社会主義国家が連鎖的に潰れていく中で、流血の惨事をともなわない「ビロード革命」へと結実する。チェコスロバキアは、ついに自由主義国家となり、彼はその初代大統領となるのである。

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『力なき者たちの力』において、彼は「硬直した社会主義」を「ポスト全体主義」と呼んで分析している。ここで言う「ポスト全体主義」とは、「一人の独裁者の意志によって牛耳られる国家の全体主義」ではなく、「体勢そのものの自動運動と化した全体主義」というほどの意味である。
前者の場合は「支配する者と支配される者」という構図がハッキリしているから「支配者を倒せばいい」という分かりやすさがあるのだが、後者の場合は「倒すべき支配者としての個人(独裁者)」は存在せず、すべての国民のなかに「自動運動化した体制」が浸透しているので、それを突き崩すのは容易なことではない。では、どうすればこの「自動運動化した非人間的体制」を突き崩すことができるのか。
それを書いたのが、ハヴェルの『力なき者たちの力』なのだ。

『力なき者たちの力』の内容については、訳者である阿部賢一の『100分de名著 ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』』がとてもわかりやすいので、そこに書かれていることを、ここで繰り返すことはしない。
私がここで強調しておきたいのは、「文体の必要性」ということである。

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ハヴェルの文体が、螺旋を描いて進むような独特の晦渋性を持つのは、彼が生きた困難な状況によるものだと言っていいだろう。とうてい倒せそうもない「自動運動化した体制」と闘うには、とおりいっぺんの「賛成・反対」や「建前的な標語(キレイゴト)」では、まったく不十分だったからだ。

と言うのも、「自動運動化した体制」とは、誰もが逆らいにくい「建前的な標語(キレイゴト)」を押しつける体制だからであり、それに対して、同じような「建前的な標語(キレイゴト)」をぶつけても、何の効果もないどころか、相手の論理に回収されてしまうしかないからである。

だから、ハヴェルは、そうした「言語の儀式化(空疎な形式化)」による「自発的な動き(オートマティズム)」を批判し、人間が人間として人間らしく生きるという「真実の生」を取り戻し、本当の意味での、人間として「威厳ある生活」を、抽象的な「あそこ(未来のどこか)」ではなく、「今、ここ」において取り戻さなくてはならない、と主張した。
そうした「人間の秩序」というものは、なにか「人間を人間以上のものにするようなもの」ではなく、まずは「人間らしさ」を守るものとして「防衛的性格」を持ったものであると主張して、反対しにくい「建前的な標語(キレイゴト)」を掲げて「異論」を押しつぶそうとする「自動運動化した体制」に抵抗し、そうした「空疎かつ強固な政治体制」を、「人間的な言葉」で浸食することによって、突き崩そうとしたのである。

つまり、私たちが「画一化を迫る権力機構」に抵抗しようとした場合、最も大切なことは、「紋切り型」の「建前的な標語(キレイゴト)」を掲げて「正義の味方」を演じ、それに「酔う」のではなく、徹底して「私の生」に生き、それに生きる権利を要求する、ということなのだ。
そして、そういう生き方には、自ずと(嫌でも)「文体」が顕われるということなのである。

ハヴェルの「文体」がそうであったように、「人間の多様性や自由」を抑圧し搾取しようとする「紋切り型の正論」に抗うためには、当然のことながら、「建前的な標語(キレイゴト)」という「便利な権威」に依存しない、その人なりの「個性」という立脚点が必要だ。
その人自身に主張すべき「個性」が無ければ、「人間の多様性や自由を!」などと叫んでみせたとしても、それは所詮「建前的な標語(キレイゴト)」であり「虚しい空言」でしかない。

だから、例えば、ハヴェルの『力なき者たちの力』を読まずして、阿部賢一の『100分de名著 ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』』だけを読んで済ませ、それでハヴェルを理解したような気分になれる人というのは、基本的にハヴェルを「理解できない人」だと考えていい。

また、ハヴェルの『力なき者たちの力』を読んだとしても、それを語るのに、阿部賢一による「適切な解説」を「右に同じ」と書き写すような「解説」をする人も、ハヴェルを理解しているとは言えないだろう。

ハヴェルが訴えているのは「私という弱い人間」の現実から出発することであり、それが「真実の生」を生きるということなのだ。
私たちが、私たち自身の「弱さ」を隠蔽して「賢い人」や「立派な人」を演じたいと思う、その心の隙に「建前的な標語(キレイゴト)」が食い込んできて、いつの間にか私たちは、「自動運動化した体制」に組み込まれた「無思考のロボット」になってしまう。

ハヴェルは『力なき者たちの力』の最終節を、次のように書き起こしている。

『 自分が傲慢になっているのではないかと幾度となく感じるので、前節は、個人的な考察のテーマとして留めておくことにする。以下は、問いかけの形のみで記したい。』(P119)

自分は「傲慢」なことを言っているのかもしれない、と疑う「知性」。それがあるからこそ、ハヴェルには「独特の文体」がある。あの螺旋を描いて進むような、多面性を有する、慎重な「文体」となっているのだ。
だからこそ、上滑りに「自動運動化」した文体、「建前的な標語(キレイゴト)」を並べ立てて「これに異論は立てられまい」という傲慢な権威主義には、陥らないのである。

「それなら、そう書いているおまえ自身はどうなのだ」と言われそうだが、無論、私自身は「非凡に傲慢」な人間だろう。だからこそ「凡庸に傲慢」な人間の「無自覚」を、問題としているのである。

真に「傲慢」な人間は、「謙虚」でもある。見かけ上「謙虚」な人間は、しばしば内面的には「傲慢」である。
だが、どちらにしろ、それを意識している人間は「独自の文体」を持たざるを得ないが、自覚のない人間の「文体」は、「個性」を欠いた、一本調子にならざるを得ない。
その実例が、「ネトウヨ的文体」であるとか「サヨク的文体」という「自動運動化した(ロボット的な)文体」なのである。

さて、あなたの「文体(思考様式)」に、「個性」はあるだろうか。

初出:2020年2月15日「Amazonレビュー」

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