小林哲夫 『平成・令和 学生たちの社会運動 SEALDs、 民青、 過激派、 独自グループ』 : 〈真面目〉を恥じぬ 若者たちへ
書評:小林哲夫『平成・令和 学生たちの社会運動 SEALDs、民青、過激派、独自グループ』(光文社新書)
1960年生まれの本書著者は、私より二つ上の同世代である。そんな同世代の私が本書を読んで感じたのは、著者の学生運動家たちに対する、彼らを見守る親のような「切実かつ温かい感情」だ。
本書の多くのページは「学生たちの運動の記録」に費やされており、著者自身の分析論評は控えめである。そこには、現場に出て頑張っている若者たちを励ましたい、陽の当たることの稀な彼らの運動や声に光を当て、後世に遺し、歴史に刻むための助力をしたい、彼らの献身的な活動をむざむざ埋もれさせるわけにはいかないという、年長世代の責任感のようなものが感じられた。
実際、著者や私の世代というのは「三無主義(無気力・無関心・無責任)」の「しらけ世代」などとも呼ばれたほどで、若い頃には政治運動になど興味を持たなかったし、持たずにいて済まされた世代だった。無論それは、先行世代による「学生運動の悲惨な末路」を見せつけられたからではあったのだが、しかし、今の日本が、このような情けないものになってしまったことの責任の一端は、たしかに私たちの世代にもあるのだ。だから、いま頑張っている若者たちのバックアップが少しでもできるのならば、という気持ちが、私にもあるし、著者にもあるのではないだろうか。
もとより、学生たちの運動に対する考え方には、それぞれに違いがある。つまり、穏健なものもあれば、過激なものもある。だが、政治的な運動においては、多少の「実力行使」すら「世間」が認めない、きわめてナーバスな今の日本社会においては、どのような党派であろうと、過激な行動などしてはいない。したがって、そんな状況下における「学生たちによる反体制運動の記録」となると、どうしても単調なものとならざるを得ない憾みがある。だが、それを押してでも、著者は使命感を持って、彼らの記録を残そうとしたのである。
「陽の当たることの稀なところで頑張っている(頑張った)若者たちに、光を当てる」という意図があった以上、例えば、有名になったSEALDsの中でも、光が当てられるのは、SEALDsの顔であったようなメンバーではなく、それ以外の人たちだし、その点で、本書で注目すべきは「民青や過激派、独自グループ」といった、ほとんどマスコミが取り上げようとはしない若者たちを取り上げている点であろう。
無論、スマートで非暴力で動員力もあったSEALDsに比べれば、こうした若者たちのグループは、「世間受けしない」という弱点を持っていた。つまり「政治臭が強すぎる(プロっぽさが嫌)」「狂信的な暴力性が嫌」「泡沫すぎて、どうでもいい」といった印象を持たれているために、読者の共感を呼ぶ記事にはなりにくかったのだろう。
だが、そういう大雑把な印象論ではなく、若者たちの個々に注目するならば、そこには決して軽んじることのできない、それぞれに必死なほどの「真剣な想い」のあることに、私たちは気付くべきであろう。
たしかに彼らには「弱点」があるし、なによりもその「思想」において、「未熟さ」や「一面性」あるいは「偏頗な極端さ」があるかもしれない。だが、それをあげつらう年長者やあるいは同世代が、いったいどれだけ日本の現状について、真剣に考えているだろうか。考えを深めてきたなどと言えようか。結局のところ、ほとんどの者は、多数派であることに胡座をかき、自身が政治的な主体者であることなど忘れ、見物客の素人評論家のような無責任さで、知ったかぶりの軽薄な論評を語っているだけではないだろうか。
学生たちの場合、政治的な問題についてどんなに懸命に勉強したとしても、10年も勉強しているわけではない。「今の日本はおかしい」「今の日本の政治はおかしい」という素朴な疑念に発して、せいぜい5年にも満たない期間で、彼らは必死に勉強して、彼らなりの理論を構築し、人に向けても語っているのである。
それを、十年以上、あるいは数十年も勉強することができたはずの、しかし実際には、受け売りの「床屋政談」くらいしかできない大人たちが、年長者が、彼らの「未熟さ」や「一面性」あるいは「偏頗な極端さ」をあげつらい、嘲笑うことなど、どうして出来るものなのか。したり顔で「あいつらは、世間というものがわかっていない」などと言う大人たちは、実際のところ「長いものに、むざむざと巻かれるしか能のなかった、負け犬」なのではないのか。
そうだ。自身を突き放して客観視できるほどの大人なら、たとえ彼らに少々の難点や弱点があろうと、彼らの熱意を肯定的に受け止めることができるはずだ。そして、彼らを励まし、時には彼らと議論しあうこともできるはずだ。
しかし、実際のところ、そんなことをする自信のある大人など、ごく稀であろう。遠くからヤジを飛ばすことしかできない「クズのような大人」が、「未熟ながらも、現場で戦っている若者」たちを嘲笑するというのは、あまりにも情けなくはないだろうか。
私は、本書を読みながら「頑張ってくれ」「御免な」「俺もできることはするよ、大したことはできないけど」と、そんなことを考えていた。
私だって、だてに馬齢を重ねてきたわけではないから、「正義は必ず勝つ」などとは思っていない。実際、正義はしばしば敗れる。本物の正義も、勘違いの正義も含めて、正義はしばしば敗れ去るのだ。
しかし私は「それでも正義は死なない」とも信じている。何度敗れても、またそこから立ち上がってくるのが正義であり、それを体現するのが、だれよりも「若者たち」なのだ。
繰り返すが、彼らの運動が完璧でないことは言うまでもない。また、彼ら自身、決して完璧ではないし、自分で語っているほど立派でもないだろう。人間というのは、本当に恥ずかしいことは語れないし、どうしても自身を美化してしまいがちだからだ。だが、それを差し引いても、彼らの「行動」は賞賛に値する。
むろん「行動」が全てではないし、行動すれば良いというものではないけれど、だからと言って、自身の「口先人間」ぶりを正当化する人間ほど醜いものもないし、そんな人間が、行動する若者たちに劣るというのは、言うまでもないだろう。
考えることも、論評することも大切だ。しかし、それは「現実に働きかける」ことの一環であることを忘れてはならないと思う。
そして、完璧ではなくとも、前のめりになって走り出した若者たちを、決して笑ってはならないと思う。自分が動けないのなら、せめて、それを恥じる心を持って、後方支援に当たるくらいの気持ちはあっていいだろう。
「若者たちの行動の記録」を読みながら、私は「年長者のなすべきこと」を考えさせられていた。
だが、その程度の読者すら、今の日本に、いったいどれくらいいるのだろうか。あなたの胸は、いま、少しでも「痛み」を感じているだろうか。
初出:2021年1月31日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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