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現実と理想の〈狭間〉をぬけて

書評:福島聡『書店と民主主義 言論のアリーナのために』(人文書院)

永江朗の『私は本屋が好きでした』に、本書が「書店とヘイト本」問題を扱った先駆的著作として紹介されていたので、読んでみることにした。著者は、ジュンク堂書店難波店の店長を務め、「書店と書物をめぐる著作」を6冊ほど刊行している著述家でもある。

今回、福嶋の著作を読んでみて感じたのは、「非常に真っ当な人だ」ということと「やや面白みに欠ける」ということだった。
「非常に真っ当な人」に「面白み」を期待するのは「不謹慎」だと感じられる方もいるだろうが、福嶋が、ただの「書店員」であったならば、私もそのような期待はせず、ただ「良心的で信念を持った書店員だ」と評価したことだろう。しかし、「著述家」は、ただ「真っ当な人」「真面目な人」なだけでは、不十分だ。ごく「真っ当な正論」を語るだけでは、著述家としては不十分だからである。
やはり、著述家、物書きも、基本的には「クリエーター」なのだから、その人にしか書けないものを書くべきであり、それができる「特別なもの」を持っていなければならない。しかし、福嶋に、それほどの「特別なもの」つまり「特異な才能」を感じない。あくまでも「非常に真っ当な人だ」という印象しか残らないのである。そしてこれが、福嶋の著述家としての、明白な弱点だ。

ではなぜ、このやや「物足りなさ」の残る福嶋が、著述家としてそれなりに重用されているのかと言えば、それは無論、彼には「書店員」というアドバンテージがあるからだろう。あくまでも「書店員が書いたもの」として、興味を持たれ読まれているのであって、この「肩書き」を外したならば、読者が半減するのは間違いなかろう。

もっとも、「書店員」で「非常に真っ当な人」で「それなりに読ませる文章を書ける」人であれば、誰でも福嶋くらいの活躍ができるのかと言えば、無論そんなことはない。福嶋を「他の書店員作家」と区別するのは、彼が「書店員として行動する人」である、と認識されている点だからだ。
つまり、彼は「書店員」として、イヤガラセに臆することなく「反ヘイト本コーナー」を作るなどして、現に「行動する書店員」であり、ただ「口だけ(筆だけ)の書店員」ではないからである。だから、彼は「中身のある著述家」としても信頼され評価されているのであろう。

しかしである、「中身のある信頼できる人間」であることと「中身のある信頼できる著述家」であることは、完全に同じではない。人としては現に素晴らしくても、著述家としてはそこまでではない、という場合などいくらでもあるだろう。福嶋の場合の「物足りなさ」も、そのあたりの事情なのではないかと私は思う。

もちろん、私も大阪の人間だから、大阪の書店で頑張っている福嶋には、単純に「親近感」を感じるし、主張内容にも共感するので、応援したいという気持ちもある(だからといって、わざわざ彼の店にまで会いに行く気はないが)。
しかし、私は今、福嶋の著作『書店と民主主義』を論じ、著者の福嶋聡を論じているのだから、ここで問題とされるべきは、この著作の価値であり、著者の力量であって、単なる「親近感」の問題ではないのだ。私にはレビュアー(批評者)としての責任があり、私はその責任において、本書とその著者を「公正」に論じなければならず、その立場からすれば、このようなやや辛い評価も避けられない。他のレビュアーが、著者の「属性」に力点をおいた評価をしている分、余計に私は、そうした「属性評価」をはずした部分、単なる「著作」「著者」として、本書とその著者である福嶋を論じなければならなかったのだ。

そして更に論じるならば、福嶋の「行動する書店員」という評価にも、一定の注文をつけざるを得ないだろう。それは、福嶋が単なる「書店員」ではなく、「店長」であるからこそ「行動」を実現できた、という見落としてはならない現実だ。普通の書店員は、やりたくても出来ない現実がある、という点である。
もちろん、店長であれば、誰でも福嶋と同じようなことが出来ると言うのではない。普通の書店店長(や経営者)には、そんな見識も信念もないから、福嶋のようなことは出来ないだろうし、現にそんな人などいないからこそ、福嶋の行動が目を惹くのである(他の書店経営者に現にできているのは、せいぜい店内にカフェを併設するなどして、おしゃれにするくらいのことだ。その大義名文は別にして)。

しかし、だからと言って、福嶋だけが本書で語られるような問題意識をもった「書店員」ではないし、同じような問題意識を持った書店員であっても、その人が「平書店員」であったならば、やりたくてもやれないという現実を忘れてはならない。
言い変えれば、少なくともジュンク堂難波店においては、福嶋は「権力者」であり「エリート(選良階級)」なのである。彼は「正しい権力者」であったからこそ「不正な権力者」に、現に抗うことができたのであって、単に「正しい」から抗えたのではない、という点を見逃してはならない。つまり、「実力を持たない正義」という難問について、見逃してはならないということだ。

人は、有名人と無名人が「同じこと」を主張している場合、有名人の主張には激しく反応しても、無名人のそれには「同感だね」くらいの反応で済ませてしまいがちであり、そこにあるのは、明らかに「無自覚な権威主義」である。そして、これこそが「権力の横暴」を許している根源なのだ。

福嶋も書いているとおり、私たちは戦わなければならない。黙って潰されるわけにはいかない。しかし、力と覚悟が無ければ、「ねばならない(義務感)」だけでは戦えず、せいぜい福嶋の著作などを読んで「そうだそうだ」と応援することしかできないだろう。

私たちが読者が考えるべきことは「お説ごもっとも」でも「そうだそうだ」でもなく、「では、自分は何をしている?」「自分には何ができる?」「そもそも、指一本でも動かす気があるのか?」という、自身への厳しい問いである。
それ無くしては、本書の読者の中からも、「お見物衆」あるいは「傍観者」しか出てこないというのは、明らかなことなのではないだろうか。

初出:2020年6月15日「Amazonレビュー」