見出し画像

ギレルモ・デル・トロ監督 『ヘルボーイ』 : ヘルボーイが可愛い。

映画評:ギレルモ・デル・トロ監督『ヘルボーイ』2004年・アメリカ映画)

ギレルモ・デル・トロ作品の中では『ヘルボーイ』が、(その続編も含めて)最も好きな作品である。

この作品を前回初めて見たのは、たぶん2010年前後。
2006年公開の『パンズ・ラビリンス』の高い評判を、後で耳にして気になっていたのを、それから数年後のテレビ放映で見たのだが、その時の感想が「道具立てやビジュアル面は完璧」というものだった。

内戦での迫害から逃れた少女は、森の奥の「牧羊神の迷宮」に迷い込み、怪物たちとの遭遇を経て、ついに牧羊神と対面する)

それで、それ以前の作品で面白そうなものを見てみようと思い、DVDで見たのが『ヘルボーイ』とその続編の『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』だったのである。

(左から、エイブ、ヘルボーイ、エリザベス

ちなみに、今でも世評の高い『パンズ・ラビリンス』を「無条件にすごい(傑作)」としなかったのは、「絵的きには完璧だけれど、ラストが呆気ない」という評価だったからだ。
そして、その弱点であるラストも、悪いというほどではないのだが、いささか「弱い」と感じたのである。

そんなわけで、『パンズ・ラビリンス』らさほど間をおかずに『ヘルボーイ』見て、こちらは文句なしに面白かったので、続けて続編の『ゴールデン・アーミー』も鑑賞し、こちらもまた前作同様に楽しめた。
それで、すっかりデル・トロのファンになった私は、その後は新作を映画館で見ることなるのだが、一一残念ながら、その後に見たものは、いずれも私としては「悪くはないが、いまひとつ」という、いささか不満の残る作品が続くことになる。
そしてその結果、私は、新作には期待しなくなってしまい、新作を見るよりも、そのうち『ヘルボーイ』連作を再鑑賞したいという気持ちだけが残ったのである。

ちなみに、『ヘルボーイ』後に劇場で見た、デル・トロの監督作品は、次の4つである。

『パシフィック・リム』(2013年)
『クリムゾン・ピーク』(2015年)
『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017年・アカデミー賞作品賞受賞)
『ナイトメア・アリー』(2021年)

要は、

『パシフィック・リム』は、ロボットアクションは楽しいけれど、当たり前な娯楽作品。
『クリムゾン・ピーク』は、絵は美しいけれど、それ以外は記憶に残らない作品。
『シェイプ・オブ・ウォーター』は、絵は美しいけど、不必要に暗い作品。
『ナイトメア・アリー』は、絵は美しいけれど、思わせぶりに終わる作品。

という感じだったのだ。一一それで、『ナイトメア・アリー』のレビューを書いて、デル・トロへの期待に決着をつけたのである。

そんなわけで、今回『ヘルボーイ』を再鑑賞して痛感したのは、本作が、デル・トロ作品としては「例外的に、明るい(肯定的な)作品」だったということである。だから、気持ちよく見終えることができたのだ。

では、なぜ『ヘルボーイ』連作は「暗く」ならなかったのかというと、これはたぶん、デル・トロが昔から好きだった原作を映画化した作品だったからであろう。
つまり、原作の持つ明るさに惹かれていたので、そこをそれなりにそのまま残した結果、「明るさと暗さ」が適度にブレンドされた作品に仕上がったのではないだろうか。

言い換えれば、デル・トロが、自分の個性をそのまま出してしまうと、「暗い作品」になってしまう、ということなのではないか。
特にラストが、アン・ハッピーエンドと言うか、文字通りの「デッド・エンド」になりがち『パンズ・ラビリンス』に代表されるように、主人公が最後は死んでしまう作品が多いのだ。

例えば、主人公が死なない『シェイプ・オブ・ウォーター』であっても、最後は、主人公たる恋人たちは、深い海の底へと去っていくのであり、これは、実質的には「この世」から去りゆく「死出の旅路」を象徴していると考えていいだろう。

また、今回デル・トロのコメンタリーを聞いてみると、昔、病院だか介護施設だかに勤めていた頃、そこの裏が墓地で、デル・トロは昼食をいつもこの墓地で食べて、墓地の雰囲気を楽しんでいた、というのである。

つまり、デル・トロという人は、昔から「死」あるいは「死の眠りとその静寂」に惹かれていたのではないと、そう考えることが出来る。
だからこそ、多くの作品に、墓地や地下世界や廃墟などが登場するのだろうし、主人公が最後に死んでしまうのも、「不幸」と言うよりは、「死の安らぎ」を得た、というニュアンスが強いのではないだろうか。

(不死の魔神ラスプーチンの墓を検めるため、モスクワの広大な墓地を訪れたヘルボーイ一行。墓を探すためにヘルボーイが魔術を使って手近の死体を蘇らせ、案内をさせるために背負っている。
この後、敵からの攻撃を受けて、この死体は地の底へ落下していくのだが、その際のセリフが「こんなことなら、死んでた方がマシだったよー!」というもの。笑わせるためのセリフでありながら、デル・トロの願望が反映されているとも言えよう)

実際、生きているときは、『パンズ・ラビリンス』でも『シェイプ・オブ・ウォーター』でも、主人公は「ろくでもない現実に取り巻かれている」という感じが強い。
要は、そこからの「逃避」の果てに、最後の「死の救い」がある、という構成なのだ。

だから、デル・トロが、子供の頃から「オタク」で、漫画や小説や映画やアニメに耽溺したというのも、わかりやすく「現実逃避」だったのではないかと思われる。
そのため、デル・トロ自身も「逃避としてのフィクション」は描けても、現実を肯定的に描いたり、現実と深く向き合って対決するといったような作品は作れない。
また、そうした個性を抑えて「娯楽作品」を作ろうとすると、『パシフィック・リム』のような、型通りの、しかし、いささか厚みに欠ける「エンタメ作品」にしかならないのではないだろうか。

では、『ヘルボーイ』は、どうして例外的に「肯定的」な作品になり得たのかと言えば、それは前述のとおり、好きな原作があったからで、その「作品世界の現実」については、素直に肯定していたからであろう。「そちらならば、生きられる」と。

つまり、デル・トロが、オリジナル作品を作ると、否応なく最後は「死」の明示または暗示されたものになってしまう。オリジナル作品は、デル・トロの「現実感」を、そのまま投影してしまうためだ。

だが、『ヘルボーイ』の世界とは、「逃避先の世界」であり「斯くあってほしい世界」なのだ。だから「ハッピーエンド」にもなるのであろう。そこでは、わざわざ死んで、死の世界に逃避する必要はないのである。

それに、そもそもヘルボーイ自身が、その名のとおり、地獄(冥界)で生まれてこの世にやってきた、「呪われた(出自を持つ)」存在なのである。

(左端がブルーム教授。右端がジョン

デル・トロは、『ヘルボーイ』で描いたのは「父息子の愛」と「男女の愛」だと言う。
「きれいごとだと笑われるかもしれないけれど、それが大切なものだからだ」というようなことを、コメンタリーで話していた。

言い換えれば、デル・トロにとっては、「この世(現実の世界)」は、あまりにも「愛」を欠いた世界だと感じられているのではないだろうか。愛を求めても、それに応えてくれない世界なのである。
そしてその孤独を、彼は、漫画や小説や映画やアニメといった「フィクション」で癒して生きてきたのではないだろうか。

デル・トロの「映像世界」が、暗くはあっても「いつでも美しい」というのも、「美しくない現実の世界」への反動なのではないか。
デル・トロには、フィクションにおいてまで、わざわざ「美しくない現実」を描く「リアリズム」など、考えられないことなのではないかと、私にはそう思える。

では、デル・トロは、どうして『ヘルボーイ』という作品(原作マンガ)を愛したのだろうか?

それはたぶん、主人公のヘルボーイが、スーパーマンバットマンといった「完成した大人(のヒーロー)」ではなく、感情移入しやすい「未熟なヒーロー」だったからではないだろうか。

つまり、ヘルボーイは、見かけこそ「いかつい赤鬼」なのだけれども、心は「感じやすい少年」なのである。
一心に愛情を注いでくれた、育ての親であるブルーム教授を心から愛して慕う、ある意味では、甘えん坊の一人息子なのだ。そのことは、彼が甘いもの好きだという設定にも窺えよう。

無論、見かけが「いかつい」ものだから、見栄を張ってハードボイルドっぽいポーズを採ってはいるのだが、それは少年ゆえの「ツッパリ」によるものでしかなく、そのことは、魔物退治の盟友である半魚人のエイブ(ブルー)に、きっちりと見抜かれている。

(コードネーム「ブルー」こと、エイブ・サピエン)

病により余命いくばくもないことを知った教授は、生まれは冥界の悪魔の眷属であるヘルボーイが、今後も優しい心を持ったまま成長してくれることを願って、ヘルボーイについての後事を託す人物として、純粋な心をもつ青年ジョンを見出し、彼にヘルボーイの面倒見役を託す。
だが、ヘルボーイの方は、そんなジョンになど興味はなく、冷たく接したために、ジョンはすっかり自信を失ってしまうのだが、そんなジョンに対してエイブは「(ヘルボーイは、ガキっぽく)ハードボイルドを気取りたいだけなんだよ」と言って、気にするなとジョンを暗に励ますのだ。

また、ヘルボーイは、自分のいかつい面相に強いコンプレックスを持っており、好きな女性に、その想いを打ち明ける勇気が持てず、ラブレターを書いては破り書いては破りするなど、その容姿には似合わない、中坊のようにウブなことをしたりするのである。

(自身の異形としての特殊能力を受け入れられず、心を病んでいるエリザベス

つまり、ヘルボーイは、「ヒーロー」でありながらも「心は子供」であり、しかも「強いコンプレックスを抱えた子供」なのだ。
だから、その点でデル・トロは、他の「完璧なヒーロー」とは違った、共感と愛着を、ヘルボーイに感じたのではないか。

(エリザベスがジョンと仲良く外出したのを見て跡をつけ、二人を遠くから見つめるヘルボーイ)

そして、そんな、自分の分身のようなヘルボーイには、幸せになってほしいという気持ちが強かったから、その呪われた出自と外見のゆえに満たされない、愛に飢えたヘルボーイの孤独を描きながらも、彼が実は「愛される存在」であることを描き、ハッピーエンドで物語を結ぶこともできたのではないだろうか。

そんなわけで、「逃避」や「泣き言」が嫌いな私の場合、オーソドックスに「デル・トロらしい作品」には不満を覚えたのだが、例外的に「肯定的」な『ヘルボーイ』という作品には、好感を持つことが出来たのだと思う。

それに、私は「子供好き」なので、「ツッパって見せてはいるけれど、実は子供のナイーブさや可愛らしさを持っている」という点で、ヘルボーイに、他に類例を見ない魅力を感じていたのである。

(個性派俳優ロン・パールマンが、ヘルボーイを好演)

実際、「映画.com」のカスタマーレビューには、「なお」氏が、もろに「ヘルボーイかわいい」と題したレビュー(5点満点の4点)で、次のように書いているほどなのだ。

「ヘルボーイかわいい」 なおさん 2022年7月9日 

ヘルボーイかわいい。ヘルボーイかわいい。ヘルボーイかわいい。ヘルボーイかわいい。ヘルボーイかわいい。ヘルボーイかわいい。ヘルボーイかわいい。ヘルボーイかわいい。ヘルボーイかわいい。大事なことです。
無骨で不器用なのにピュアピュア感ある。
劇場公開時鑑賞。デル・トロ監督の「好き!」が溢れてる気がする。』

まったく同感である。

ヘルボーイは、私が子供の頃に読んで、いたく共感した童話『泣いた赤鬼』の赤鬼のように、「見かけは赤鬼、心は」心優しく傷つきやすい、ナイーブな少年そのものなのである。


(2024年12月6日)


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ● ● ●


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


この記事が参加している募集