ヘルマン・ヘッセ 『地獄は克服できる』 : 自己美化という〈麻薬〉
書評:ヘルマン・ヘッセ『地獄は克服できる』(草思社文庫)
初めて、ヘッセを読んだ。だから、先入観や偏見のたぐいはほとんど無いはずなのだが、これはあまりに酷い、としか評価のしようがない。
ヘッセが、現在の読書界からは、ほとんど忘れられた存在なのも宜なるかな。けっして故なきことではないのだろう。
このように断ずる理由については、「読めばわかる」で済ませたいところだが、わからない人も少なくないようだから、多少は具体的に指摘しておこう。
ヘッセのダメな点を端的に指摘するならば、それは「最も苦しんでいる私は、最も心豊かだ」という、逆説的な「自己正当化」であり、その「ナルシシズムに由来する自己劇化」だと言えるだろう。
およそ「自己批評(自己相対化の視点)」というものを欠いた、彼の身も蓋もない「自己美化」は、めったにお目にかかれないほどのシロモノなのである。
私が『「最も苦しんでいる私は、最も心豊かだ」という自己正当化』とまとめた、ヘッセの基本的な「構え」が、ここには露骨に表れているし、本書には、こんな「自己賛美」とその裏返しである「他者への見下し(ルサンチマンに由来する報復)」が、ウンザリするほどちりばめられている。いや、こんな調子が「通奏音」であり、「通奏低音」ですらないのだ。
たしかにヘッセは、苦労をしてきた人なのだろうと思う。だからこそ、その「苦労」や「苦痛」体験に、殊更な意味や価値をみずから見いだすことによって、逆説的に、実は自分こそが並外れて恵まれた「特別な人間」だと思おうとしたのであろう(観念的自己回復)。
その気持ちはわからないではないのだけれど、「苦労自慢」が恥ずかしいと感じる人間には、とうていヘッセの自制心を欠いた、鼻持ちならない「自慢話」の垂れ流しを、褒める気になどなれはしない。
こんなものを褒められるのは、会社の飲み会で若い部下を捕まえて「イマドキの若者は、苦労を知らない。苦労は買ってでもするものだし、そうすることで豊かな人間へと成長できるのだ」なんてことを臆面もなく説教したがる、今や「パワハラ親父」としか呼びようのない、度しがたく無自覚な老人たちだけであろう。
彼らは「自分のした苦労を、若い人たちにさせてはならない」というような発想を、金輪際、持つことのできない人たちなのである。
実際、こういう人たちの「鈍感さ」とは、こんな具合なのだ。
ヘッセはここで、画家や芸術家の「独り善がり」を責めているのではない。あえて「苦しみを引き受ける」画家や詩人といった「芸術家」を、積極的に肯定して、そんな「芸術家」の一人である自身を間接的に賛美して、「道路掃除人の苦しみや哀しみ」など、毛筋ほども想像できないでいるのだ。
そして、そんなものでしかないこの文章を読んで、それでもヘッセの、無神経でエリート意識丸出しの人間性に、なんの疑いも抱かないでいられる人というのは、もはや「どうかしている」としか、私には言いようがない。
だが、ヘッセファンはこんなものを読まされても、それでもヘッセは、彼らにとっては「権威ある、文学の神様」であり続け得るのだ。
もちろん、ヘッセに文学者としての才能がないと言っているのではない。「面白い文学」を書く人が、必ずしも人間的に優れているわけではないというのは、「当たり前の事実」でしかない。
ダメな奴だからこそ、ダメな奴の内面を、何の抑制もなく生々しく描けるというのは、確かにある。また、ダメな奴だからこそ、抽象的な理屈と観念的な理想主義で自分を美麗に飾りたて、世間の人々を「俗物」として見下し、自分を慰めるなんてことは、掃いて捨てるほどある話だ。
ヘッセのエッセイは、そうしたものを一歩も超え出ていないし、それは、彼の「悲劇的な美」を描いた小説や詩が、じつは自身を正当化し、自身を「救う」ために、止むに止まれず生み出されたものでしかないことを証し、裏づけるものともなってるのである。
無論それは、ある意味では、やむを得なかった「自己救済のための産物」だし、それで救われる人がいるのも事実だろう。しかし、芸術というものは「効用」がありさえすれば、「感動ポルノ」であっても良いとか、「感情マスターベーションの具」であっても良いとまでは言えないものなのだ。そうしたものの存在が容認され得るとしても、それは決して望ましいものではないのである。
実のところ、(前記引用の言葉に反して)ヘッセの描く、自身の「苦悩」や「苦痛」には、具体性が皆無だ。なぜならば、彼のそれは、多くの場合、その「被害者意識」に発したものであり、だからこそ「道路掃除夫」も「金持ち」もひとしなみに「能天気な俗物」として見下すことができる。
ヘッセは、「苦しんでいる人たち」や「弱い人たち」の味方などではない。彼は「苦しんでいる私」「弱い私」の味方であり、その自身の「弱さ」を逆張り的に「特権化」することで、自分を慰めている「弱い人」なのだ。
だから、いかに「人に優しく」とか言っても、実際には「愚痴」や「恨み言」に類した、他者批判ばかりが目立つのであり、だからこそ、多くの人から批判されることにもなったのである。
じっさい、医師も彼の苦しみの原因は「外にではなく、内にある」と指摘し、彼もそれを受け入れたかのような口ぶりではあったけれど、彼のそうした「受け入れ」も、結局は「自身の弱さを受け入れる私が、じつは誰よりも強い人間なのだ」という、いつもの自己正当化に転倒してしまう。
そんな彼を哀れむのなら良い。しかし、そんな彼を「立派」だなどと賞賛したがる人とは、じつのところ、著名人である彼に自分を重ねて、自分を「立派」だと自己賞賛したいだけなのではないか。
ヘッセの読者こそ、真剣に「自己懐疑と自己抑制」を考えるべきではないかと、生意気を承知であえて書かせていただいた次第である。
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