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我思う故に世界が生まれた

書評:池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』(ブルーバックス)

私が最も興味を惹かれたのは、第三章「脳はゆらいで自由をつくりあげる」の後半部分、つまり「秩序と自由」を創発する「ゆらぎ」を生み出す「構造とノイズ」、そして「構造の自己言及性(再帰性)」の部分だ。

私はもともと文学趣味の人間なのだが、そのなかでもなぜか惹かれるのが「メタ・フィクション」形式の小説である。つまり、「入れ子構造」や「自己言及」的な形式・内容を持つ小説、ということである。

しかし、そうした嗜好は、何も「文学」にかぎった話ではない。そもそも、私が脳科学に興味を持ったのも、本書での指摘を待つまでもなく、脳科学ほど露骨に「自己言及」的な学問もないからである。

もちろん、「自己言及」的なものは、脳科学にかぎらない。心理学や哲学、社会学、宗教学、歴史学といったものは、すべて「人間の心理と行動」についてのものだし、生物学としての動植物学などもすべて、元は「人間の起源」を知るためのものであるとも言え、その意味ではやはり「自己言及的」なのだ。

しかし、本書の最終章後半において、人間が人間的な「心」を持つにいたったのは、たぶん、人間の脳が、他の動物の脳では達し得ていない、高度な「再起性=自己言及性」を備えたからだろうと指摘されるにおよんで、私の「自己言及」好きは、けっこう大切なところを、知らずに押さえていたのだな、と嬉しくなったのである。

例えば先日、私は、脳科学者・中野信子の著書『キレる! 脳科学から見た「メカニズム」「対処法」「活用術」』についてのAmazonレビュー(心の自己言及的構造の困難と面白さ)で、次のように書いた。

『(※ 中野信子は)これほど、才能や美貌に恵まれながら、さらには、自身の「感情の揺れ」の根拠を科学的に知っていて、ある程度のコントロール法まで熟知している人でありながら、それでも自分に十分な自信を持って、安心して生きていくことができない。この「完全には自己コントロールできない」というのは、人間というものの宿命めいたものを、とても象徴しているように思えてなりません。

「脳科学的には、そうした時はこうしたらいい」と一応の説明はつくけれども、それで万事解決とはならないところが「人の心の難しさ」なんでしょう。
でも、だからこそ「人の心は面白い」と感じてしまうのは、私が文学趣味の人間だからなのかもしれません。

「心もまた科学的現象である」と思いながらも、その心の支配下にあるが故に、心そのものを自分でコントロールすることが必ずしも容易ではない、「自分vs自分」という、切っても切れない「メタ(自己言及)関係」というのは、困ったことではあるものの、でも、やっぱり「だから面白い」と思ってしまうのは、私だけなのでしょうか。』

私はここで、私の興味の持ち方が「文学趣味」なのかもしれないと書いたが、しかし、本書『単純な脳、複雑な「私」』を読んだ後では、けっこう脳科学的に重要なポイントへの興味であったように思う。

また、脳科学に詳しい作家・橘玲の『「読まなくてもいい本」の読書案内:知の最前線を5日間で探検する』のAmazonレビュー(「大見得を切りたがる合理性」)では、次のように、橘を批判しています。

『そもそも、複雑なものを、単純な基本パターンに還元して理解することに喜びを覚えるのも「知」なのであれば、複雑なものをその複雑さ(難解さ)の故に美しいと感じるのも「知」なのであって、前者の故に後者が「古い」とか「役に立たない」とかいった評価を下すことは、趣味に偏した、根本的に筋違いの評価なのではないだろうか。
(略)
そして、ことは橘玲がいう「新しい科学的思考」というものについても、同じだ。私は、それがそこまで「万能」めいたものだとは、にわかに信じられない。
それもまた、一種の「信仰」なのではないか、これまで人間が何度も繰り返してきた「過信」の新しいパターンなのではないか、と疑わざるを得ないのだ。
それほど、人間は当てにならない、と思っている。

したがって、橘玲の説にも「そんなに単純な話なのか」と疑ってしまう。
橘自身「人間の意識は(なかなか)進歩しないようだ」という趣旨のことを本書でも書いているが、それならば「知のパラダイムシフトの前と後」で、人間的な知のあり方がガラリと変わって、それ以前のものはガラクタになり、それ以後のものは素晴らしい、なんていうような感じ方は、かつてマルクスの思想が世界を席巻した時に多くの人が感じた「これですべてが説明できる。すごい!」と似たようなところが、本当に無いと断じることができるのか、と疑ってしまう。

そもそも、橘玲には「文学的なセンスが欠落」しているのではないだろうのか。
脳科学的な現象として、よく知られる「サヴァン症候群」のように、脳内ストッパーの故障によって、一部の能力が過剰に発揮されることがあるように、橘玲の示す「合理的で有効性の高い知のあり方」というのは、サヴァン症候群的なカタワの世界観なのではないだろうか。

文系の示す知のあり方とは、しばしば、非合理で迂遠で混乱しており、かつ自虐的であったり自己破壊的であったりするところもあるわけで、それはたしかに非合理的で不経済な部分を多くふくむものではあるものの、しかし、そうした「試行錯誤的な慎重さ」や「複線的思考」も、人間が生きることにおいて必要な、つまり世界の複雑性に対応するために必要な「進化によって付与された要素」なのではあるまいか。

古い知は「役に立たない」という発想は、役に立たない文学的な知を愛する者には、合理的ではあれ、貧困なもののように感じられるし、単純すぎて面白みに欠ける。
もっと、何かつかみどころのない要素を、いろいろまといつかせて生きているのが、人間というものなのではないか。
橘玲が愛する「科学的な知」とは、不合理な(と見える、複雑系としての)世界や人間という前提があってこそ、初めて面白いし、役にも立つのだろうが、そのセンスだけで、世界や人間を「プロクルステスの寝台」のごとく切り詰めるのは、いかにも危険でもあろうし、なにより安易かつ、つまらない合理性だと、私にはそう思えてならない。』

この批判も、ほとんど直観的なものなので、間違いも少なくないだろうが、しかし、本書『単純な脳、複雑な「私」』を読んだ後では、けっこう脳科学的に重要なポイントを突いているように思う。

例えば、「ゆらぎ」こそが人間らしい創造性を生むのだが、その「ゆらぎ」を生むためには「ノイズ」が入力されなければならない。単にきれいに組織化された脳組織回路だけでは、「ゆらぎ」は生まれない、といったことである。
また、私が橘玲には「文学的センスが欠けているのではないか」と言っているのも、結局は「自己言及」としての「自己批評性」の欠如を指摘したものだと言えるだろう。

そして、なによりも、私がここで言っているのは、本書のタイトルである『単純な脳、複雑な「私」』ということだ。
「単純な原理」から「複雑な機構」が生み出されるという事実は、複雑な機構を神秘化する必要もないかわりに、その複雑さを否定することもまた、間違いなのではないか、ということである。
少なくとも、本書の著者である池谷裕二は、橘玲のような「人間の複雑さ」にたいする冷淡な(趣味的な)還元主義的態度は採っていないと思うのだが、いかがだろうか。

この他にも私は、SF作家・飛浩隆の長編小説『零號琴』についてのAmazonレビュー(「物語の中の〈親友〉たちへ」)で、この作品の、そしてこの作家の本質は「自己言及性」であるということを間接的に指摘して、このレビュー自体に「メタ構造」を持たせてみたのだが、これは、「文学」あるいは「批評」というものの本質が「自己批評」であるという私の考え方を、形式的に表現したものであった。

『そして、私にも、そんな(※ 実在する存在のように、親近感を持って愛した、フィクションの)キャラクターが何人も存在していて、私の生き方を、どこかでたしかに規定してきたと思う。「彼らの想いや理想を裏切れない」と。
現実に生きる私には、アニメや特撮ドラマのヒーローやヒロインのような特別な力はなく、だから彼らの体現した正義や勇気や優しさや自己犠牲を、そのまま引き継ぐことはできないけれど、しかし「気持ちでだけは裏切りたくない」という思いが、ずっと生き続けてきた。
そしてそれは、同世代である飛浩隆もまた、基本的には同じなのだと思う。

『 そんなわけで本人がいちばん気に入っている文章は、(※ 作中のアニメ作品である「フルギア!」のキャラクターである、愛称)なきべそについて書いたもので、これは別の名義で書かれた。
 その中で鎌倉ユリコは「フリギア!」の熱心なファン(大人も子どもも)に向かって、こう書きはじめている。

 あなたたちの中で、なきべそは、くさびになって大時計の中で生きていることでしょう。
 これはとてもたいせつなイメージであり、シンボルです。このシンボルがあなたたちの心中できっと大切な役割を果たしていることでしょう。また、その役割はひとりひとりみな違うでしょう。それがどんなものかは、あなたの心の中にいるなきべそにきてみてくださいね。
 ここでこれから書いておきたいのは、くさびであることを強いられたなきべそがどうやって別の物語に登場できたのか、そこで出会ったかがみのまじょとどう対決したか、そして「最終回」の先を生きられたか、です。』(P596)

物語の中の「彼(彼女)のように生きたい」という思いは、決して「現実逃避」などではない。そうではなく、それは「彼(彼女)ら」を、この「現実」の中で生き延びさせることであり、それこそが「最終回の先」なのではないだろうか。

私たちファンが忘れないかぎり、「彼(彼女)ら」は生き続け、そして何度でも姿を変えて甦るのだ。
「彼(彼女)ら」は、この「不条理な世界=現実」に生きる私たちを、いつでも励ましてくれる。例えば、「フリギアは、絶対に諦めない!」という決め台詞は、私たちへの励ましのメッセージであり、そして、そんな「彼(彼女)ら」を生かし続けるのは、私たちなのである。』

ここに示されているのは「リアルとフィクションの再帰的関係」であると言っていいだろう。
人間は「リアル」を元にして「フィクション」を作り、さらには「フィクション」を元にして「(メタ)フィクション」を作り、さらにそうして作られた「フィクション」や「メタ・フィクション」を自ら(リアル)のなかに再帰的に取り込むことによって、新たな「リアル」を構築していくのである。
だから、私は、このレビューの末尾に、このような【補記】を付け加えた。

『【補記】

本レビューを、放火事件で亡くなられた「京都アニメーション」のクリエーターたちに捧げたいと思います。

あなたたちの想いは、あなたたちの描いた「彼(彼女)ら」を通して、私たちの胸に、永遠に生き続けることでしょう。「最終回の先」を、私たちは信じています。』

「最終回の先」とは何か。
それは「リアル」と「フィクション」が再帰的構造を構築して作り上げていく、新しい「リアル」であり「フィクション」のことである。
「物語」は一応の「最終回」を迎えるけれども、あらゆる「情報」は常に人の脳に回帰して、新しい「現実(物語)」を創造していくのである。したがって「人の死」も「物語の結末」も、それは行き止まりの「(最終的)結論」などではない。

『 僕ら脳科学者のやってることは、そんな必然的に矛盾(※ ラッセルのパラドックス)をはらんだ行為だ。だから、脳科学は絶対に答えに行き着けないことを運命づけられた学問なのかもしれない。一歩外に出て眺めると、滑稽な茶番劇を演じているような、そういう部分が少なからずあるのではないかなと僕は思うんだ。
(略)
 でも、科学の現場にいる人にとっては、そう(※ した、結果や有用性の価値に重きを措く考え方)ではない。科学の醍醐味は、それだけに尽きるのではない。むしろ本当におもしろいところは、事実や真実を解明して知ること自体よりも、解明していくプロセスにある。
(略)
 ということは、こんな逆説的な言い方もできるよね。「脳」を扱う科学は、そのリカージョン(※ 再起・自己言及)の性質上、もしかしたら〝ゴールがない〟ものかもしれない。だって脳を脳で考える学問だから、その論理構造上、そもそも「解けない謎」に挑んでいる可能性があるってるわけ。
 だとしたら、脳科学者にとって、一番おいしい部分、「解明していくプロセス」は永遠に残り続けるという意味になるよね。これは科学者にとって幸せなことだ。』(P437〜438)

脳科学は「ゴールがない」学問だからこそ「幸せ」なのだとすれば、同様に「人の死」も「物語の結末」も、それは行き止まりの「(最終的)結論」ではなく、「リアル」と「フィクション」が相互貫入的に再帰的回路を構築することによって、ひとつの「世界」を構築し続けるものだとも言えようし、これもまた「生きる」ということなのではないだろうか。

私が、『零號琴』のAmazonレビューに付した【補記】において「現実の事件被害者」に言及したのは、そこに「再起性の回路」を成立させるためだったと言えるだろう。

そして、このレビューを「物語の中の〈親友〉たちへ」と題したのは、会ったこともないけれど、しかし他人とは思えなかった「京アニの亡くなったスタッフたち」が、私にとっては「物語の中の〈親友〉たち」に他ならず、それは実のところ、他の大半のファンにとっても同じなのである。
私たちにとって「彼ら」を生かしつづけることとは、彼らを私の中に再帰させて「最終回の先」を作っていくこと(クリエイティブなプロセス)だと考えた。だからこそ、私はこのレビューを「彼ら」に捧げたのである。

初出:2019年7月28日「Amazonレビュー」