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AIイラストジェネレーターの〈非情な現実〉 : 「AI うるし原智志」の登場

このイラストを見て、古いアニメファンなら「今頃、なんで、うるし原?」と思うだろう。

だが、これは、「うるし原智志のオリジナルイラスト」ではなく、別人の「オリジナルイラスト」として発表された作品だ
それは、次のタグにも明らかである。何しろハッキリと『#オリジナル』とあるのだから。

#AI生成 #オリジナル #girl #少女 #美少女 #女の子 #sexy #sexygirl #原创 #制服 #AIイラスト #創作

そう。これは「AIイラストジェネレーター」で生成されたイラストであり、うるし原智志の作品に「これとまったく同じ」ものは、たぶん存在しないはずだ。
なぜなら、このイラストが掲げられているページには、同じキャラクターで、角度やポーズなどを変えた別バージョンのイラストが、12枚も掲載されているからで、これがうるし原のものなら、こんな似たようなイラストを、いくつも描くわけがないからである(非効率すぎる)。

つまり、『「AIイラストジェネレーター」で生成されたイラストであり、うるし原智志の作品に「これとまったく同じ」ものは』存在しないから、これは「オリジナル」だということのようだが、しかし、いくらなんでも、これは酷い。
うるし原にすれば、これは「自作の無断改竄」に近いもので、そのままパクったものよりも、かえってタチが悪く、腹立たしいのではないだろうか。

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私は、古いアニメファンだから、うるし原智志がアニメーターとして売り出し始めた頃から知っている。
当初は「美少女が描けるアニメーター」として注目していたし、彼が、キャラクターデザインと作画監督を務めた「OVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)」である『プラスティックリトル』は、当時、かなり高価なものだったが、どうしても観たくて購入したと記憶する。のちの「DVD版」(2000年・2004年)ではなく、オリジナルの「ビデオカセット(VHS)版」(1994年)である。

(DVD版)

その後、うるし原は、画集を刊行して人気を博したものの、薄給のアニメーターの仕事より、そっちの方が儲かったせいか、ほとんど美少女イラスト専門のイラストレーターに転向した感があり、それはそれで構わないのだが、可愛くてエッチなイラストばかり描いていると、どうしたって、絵がパターン化してしまう。

(初期のイラスト集)

アニメーターは、いろんな絵を、いろんな角度やポーズで描くから、それ自体が絵の鍛錬にもなるのだが、決めポーズばかり描いていると、徐々にデッサン力が落ちてくる。
うるし原智志は、まさに、このパターンにハマってしまった人で、画集も、3冊目4冊目になってくると、だんだんポーズが硬くなってくるし、顔もどことなく平板化してくる、そして、ついには、人体デッサンに狂いが出てきたのだ。

(ポーズや表情が硬く、胴のあたりが平板化してきている)

で、私は、このあたりで、すでにイラストレーター化していた、うるし原を見限ったのだが、その彼のイラストと「今頃になって再開するなんて」と思ったら、なんとこれが、彼の作品ではなく、「AI生成」された作品であったと知り、なんとも言えない気持ちになった。

この「AIイラスト」をアップした人に「パクってやろう」という意識はなかったのであろう。ただ、考えもなしに、自分の好きな「うるし原智志」の名を、生成のための条件ワードに入れた(あるいは、素材として読み込ませた)のだろうが、その結果うみ出されたこのイラストが、なんとも「残酷」なものだと感じられるのは、このイラストが「うるし原智志が、一番よかった頃のイラストを再現」してしまっている点なのだ。
すでに「うるし原智志本人」にさえ描けないであろうものを、AIが易々と大量生産してしまっているところに、機械の非情さを見るのである。

日本ではどうか知らないが、すでにこうした問題は、法廷に持ち込まれているだろう。
だから、私のこの記事が、この「AIイラスト」を発表した人の耳に届けば、上のイラストは削除されてしまうかもしれない。

だが、問題は、このイラスト、このイラスト生成者、の問題ではないと思う。

もちろん、このイラスト生成者が、こうした「AI生成イラスト」で金儲けをしているのなら、訴えられてしかるべき問題だが、そうでなかったとしても、ここまで露骨にやってしまっては、「著作権侵害」が問われることにもなるだろう。

だがまた、どこまでがオリジナルで、どこからがそうではないのかという問題は、以前にも論じたとおり、いささか難しいところがある(裁判官の「自由心証」からしても、この場合は、アウトだろうが)。

しかし、それにしても、これは、うるし原智志本人にとっては無論、遠に、うるし原のファンではなくなっていた私であってさえ、ある種の、つらさやキツさを感じないではいられない、なんとも「非情な現実」となってしまっているのである。


(2023年4月5日)

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