見出し画像

誰の心にもいて然るべき〈三酔人〉

書評:中江兆民『三酔人経綸問答』(岩波文庫)

『3人の思想の異なる登場人物、洋学紳士(紳士君)、豪傑君、南海先生が酒席で議論する物語。紳士君は人類史を3段階に区分し、明治10年代に日本へ紹介されていた社会進化論を用いて、進化を発展の原動力とした。フランス、ドイツなどヨーロッパ列強を批判し、完全民主制による武装放棄や非戦論などの理想論を展開する。これに対して豪傑君が反論し、中国進出を主張。両者の論争を現実主義的立場に立った南海先生が調停する構成である。』(Wikipedia)

本書の概要は、上の「Wikipedia」の引用で御勘弁願うとして、登場人物三人について、さらにわかりやすく紹介するならば、

・ 洋学紳士(紳士君)は、理想主義的個人主義者
・ 豪傑君は、地政学的英雄主義者
・ 南海先生は、状況論的現実主義者

ということにでもなろうか。

洋学紳士は、個人の幸福を重視し、かつ戦争を無くすという理想をいかに実現するかと考える、誠実な理想主義者で、その無抵抗主義は「たとえ命を奪われようとも」という覚悟に立った立派なものである。しかし、この理想は、万人向けではない、という決定的な弱点を持っている。

豪傑君は、「人間の歴史は、戦争の歴史」だという現実を否定できないものとして認めるところから出発する人であり、その意味では、歴史的事実の裏付けがあり、相応の説得力はあるものの、しかし、戦争には勝ち負けがあって、負ければ悲惨な末路が待っているという現実は否定しえない。そこで彼は、英雄主義的に負けることも覚悟した上での、栄誉ある決断としての主戦論を語る。だが、この場合は、そういう英雄主義に否応なく巻き込まれる庶民への配慮(想像力)が決定的に欠けていて、自己陶酔の独り善がりという謗りを免れない。

南海先生は、前記二人の意見が、それぞれに立派ではあるけれども、他者への配慮を欠いている点に問題があり、そのような「極論」は採用できない、と否定する。では、どうするのかと言えば、状況に応じて、是々非々の判断と選択をするしかない、という当たり前と言えば当たり前すぎる立場を表明する。

岩波文庫版の「解説」で桑原武夫が、本書の三登場人物のいずれが、著者の中江兆民自身の立場なのかという問題について、一般には南海先生だとする説が多いようだが、ことはそう単純ではなく、この三人のいずれもが、否定しがたく兆民の中に存在し、葛藤していたのであろう、という理解を示している。
そして私も、この解釈が正しいと思うし、それしかないとも思う。

と言うのも、どれか一人の意見というのは、見てのとおり、それぞれに美点もあれば欠点もあって不十分なものであり、その欠点が見えている者は、到底それらに安住し得ないからである。
つまり、著者の中江兆民が、この三人のうちの「誰か一人」ということは、あり得ないのだ。

兆民のなかにはこの三人が存在し、その時々の状況にあわせて侃々諤々の議論をし、それぞれが優勢になったり劣勢になったりしながら、最終的な落としどころが探られてきた、というのが、兆民の現実なのではないだろうか。

実際、洋学紳士(紳士君)あるいは豪傑君の考えでは、いずれにしろ非現実的に極端だし、南海先生の立場は「無原則的」であり、状況に引き摺られるだけ、ということになりかねない。その意味では、この三者が揃ってこそ、初めてそれなりにバランスのとれた判断も可能なのではないか。

つまり、この三人がいずれも必要なのは、じつは何も作者・中江兆民だけではなく、私たちも同じなのではないか。私たちは、それぞれのなかに「洋学紳士(紳士君)、豪傑君、南海先生」の三人を飼っているべきなのではないだろうか。

言い変えれば、この中の誰か一人しか持っていない人というのは、大変わかりやすくてご立派な意見の持ち主だとは言えようが、所詮は、そんな自分に陶酔しているだけの、現実が見られない、単なる「酔っぱらい(酔人)」なのではないか。

「三人寄れば文殊の知恵」と言うが、一人ひとりは酔っぱらい(不完全な認識者)でも、違ったタイプが三人よって、真剣に議論するならば、完全正解ではないにしろ、それなりに誠実で真っ当な「より良き道」を見いだす蓋然性が高まるということを、この三人は示しているのではないだろうか。

初出:2020年4月13日「Amazonレビュー」