『クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男』 : タランティーノ擁護のための映画
映画評:タラ・ウッド監督『クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男』
特にタランティーノのファンだというわけではない。むしろ、私にはいまいちピンと来ないタランティーノ作品について、少しはその理解の足し前になる意見が聞けるのではないかと思い、映画館に足を運んだ。本作は、タランティーノに関する、関係者へのインタビュー映画である。
タランティーノ本人は出演していない。
タランティーノが「次の10作目を撮り終えたら、監督業を引退する」と宣言をしたとか、小説本を出したとかいった話は側聞していたが、彼の作品を5本ほど観てはいるものの、タランティーノ個人についてはまったく詳しくはなかった。
だからこの映画で驚かされたのは、監督デビュー作以来、タランティーノ映画の大半をプロデュースしたのが、あのハーヴェイ・ワインスタインだという事実であった。
そんなことは、映画マニアやタランティーノファンには常識に類することだったのかもしれない。だが、映画マニアでも何でもない私は、監督や出演俳優には注目しても、プロデューサーを気にしたことはなかったのである。
いわゆる「ワインスタイン事件」を知らない人のために、Wikipediaから概要を紹介しておこう。
この事件については、なにしろあの「MeToo運動」のきっかけにもなったものだったから、映画うんぬんではなく、フェミニズム関連の事件として、私も概要は知っていた。
けれども、それがタランティーノと関係してくるとは思いもしなかったのである。
なお、この事件を扱った映画『SHE SAID シー・セッド その名を暴け』(マリア・シュラーダー監督・2022年)も、昨年公開されている。
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ともあれ、本作『クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男』を観るまでは、私はタランティーノ作品のプロデューサーがワインスタインだということを、まったく知らなかった。だから、今年3月に書いた、主に『パルプ・フィクション』と『レザボア・ドッグス』を扱った、タランティーノに関する作家論的なレビュー「『パルプ・フィクション』の何がそんなに面白いのか?:タランティーノ的趣味嗜好」では、次のように書いている。
つまり、ワインスタイン事件との関係を知らなかった私は、タランティーノが「映画を卒業する」と言い出したのは、当たり前に「作家的な心境の変化」によるものだと考えていたのだ。だから、
と、実際のところ、老い込むには早すぎると承知していながらも、あえてこのように書いたのである。
私の推測としては、タランティーノは「無邪気な映画オタク」から映画監督になった人で、「何でも撮る職人気質の監督」ではなかったから、何作も撮っていくうちに、初期のアマチュア的なモチベーションが薄れてきて、そのあたりで悩んだのかもしれない、というようなことだった。
もちろん、タランティーノが映画制作に対するモチベーションを保てなくなった理由については、本人がハッキリとは語っていないようだから、その真相はわからない。
だが、ワインスタインと、デビュー作以来の良好な関係にあり「大切な友人だ」というようなことさえ言っていたタランティーノであれば、ワインスタインの事件が発覚するまでは何も知らなかった、などということは考えにくい。
まして、ワインスタインの毒牙にかかった女優の中には、タランティーノの『パルプ・フィクション』『キル・ビル』『キル・ビル2』などで主演女優をつとめ、タランティーノの「女神」であったユサ・サーマンがいたのだから、事件が公になる前のどこかの段階で、サーマンの被害のことも知っていたとしか思えない。
しかし、実際のところ、それでタランティーノがワインスタインを批判して縁を切ることができたかと言えば、それは不可能だろう。
なにしろ、ワインスタインは「ハリウッドの権力者」の一人であり、彼に逆らったために干された監督や俳優もいるようだし、ましてタランティーノにとっては、ワインスタインは「友人」というよりも、実際のところは「年上の恩人」とも言うべき存在であったはずだから、普通に考えて、ワインスタインを批判することなどできなかっただろう。
また、ワインスタインの被害者が、サーマンを含めて多人数に登ることを知っていればいるほど、「忠告」などという中途半端な話で済む問題ではないのも明らかで、やるのなら「社会的告発」しかなかっただろうが、それをすれば、ワインスタインと決定的に対立するだけではなく、沈黙を守っていた被害者たちの恐れている状況にもなりかねないというのは、容易に想像できることだったからである。
つまり、私の想像だが、タランティーノとしては、ワインスタインの行状をおおよそのところは知っており、当然のことながら、それを忌まわしいことだと批判的に見ていただろうし、もしかすると、個人的に「ちょっと、それはまずいよ。もうやめた方がいい」くらいに、やんわりと忠告することくらいならしたかも知れない。
しかし、すでにやりたい放題をやって、それをやる力が自分にはあると思い上がっていた「権力者」が、そんな腰のひけた忠告になど耳を貸すはずがない。
公の場では、スター監督であるタランティーノを立てて「友人」だと言っていたかも知れないが、実際のところは、ワインスタインにとってのタランティーノは「駒」のひとつであって、自分に意見をするような存在だとは思っていなかっただろうから、良くて「心配するな。お前に迷惑はかけんよ」と笑うくらい、悪ければ「俺に対して、二度とそんな口を利くな。俺に逆らって、この業界でやっていけるなんて思うなよ」などと恫喝されることにしかならなかっただろう。そして、むしろ後者の方が、可能性は高かったのではないか。だとすれば、ワインスタインの性格をよく知っているタランティーノが、自らの保身ということだけではなく、「言っても無駄だ」と諦めていたとしても、何の不思議もない。
しかしながら、自分のごく身近なところで、そんな醜行が継続的になされており、敬愛する女優たちがワインスタインの毒牙にかかっているということを知っていれば、「俺はこんな奴に頼ってまで、映画を作ってきたのか」とか「俺は、敬愛する女優たちを見殺しにしてきた」という罪責感に苛まれていたとしても、何の不思議もないというか、むしろそうであってでこそ、当然であろう。
まして彼は「無邪気な映画オタク」だったのだから、愛する映画界の裏側で、やはりこのような醜行が行われており、しかもそれを知った自分自身が、映画界を守るための行動を何も採れないという情けなさや忸怩たる想いに責め苛まれても、何の不思議もないのである。
だから、ある時期から、タランティーノが「映画監督を卒業する」と言い出したことは、単純な「作家的な心境の変化」などではなく、ワインスタインの醜行を見て見ぬふりをしながら、映画を撮り続けることに、もうこれ以上は、我慢ならなくなった、というような、一種の「罪の意識」のせいだったのではないだろうか。まさに、
という心境だったのではなかったか。
たしかに、こうした解釈は、タランティーノに好意的に過ぎるとしてもである。
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そんなわけで、本作『クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男』は、タランティーノを擁護するために作られたものなのではないかと思う。
その内容は、基本的に「タランティーノ讃」一色であり、「タランティーノの書いたシナリオを読んだ時に、こいつはすげえと思った」とか「彼は、とってもいいヤツ」とか「根っからの映画オタクだ」とか「女性と黒人に、心からの共感と尊敬を抱いていた」とかいった「讃嘆的な証言」ばかりで、「批評的な言葉」は皆無であったと言ってもいいだろう。
「批判」が無いのは、この種のオマージュ映画では仕方ないにしても、もう少し「客観的な分析」のようなことが語られても良かったのに、それさえ無かったのである。
そして、本作の後半で語られるのが「ワインスタイン事件」にまつわるエピソードということになるのだが、そこではワインスタインの「傲慢」な人柄が批判的に語られる一方で、それに対するタランティーノが、どうであったのかということについては、きわめて曖昧にしか語れない。
例えば、『キル・ビル』で、スタントマンの不在時に撮影を強行して、ユサ・サーマンが自ら運転した車による事故で大怪我を負った結果、タランティーノをはじめとしたスタッフはそれを悔いて深く傷ついたと語られる一方、ワインスタインはこの事故を隠蔽しようとしたと批判的に語られる。だが、この隠蔽に対し、タランティーノがどれほど抵抗したのかは、具体的には何も語られないのだ。
また、本作に出演したある男優は、ワインスタインの毒牙にかかった女優たちが、これに抵抗できなかったのも、彼女らにも家族がおり生活がかかっていたのだから、やむを得ないことだったのだ、という趣旨のことを語って同情は示すが、自分たちがそうした事件をどの程度知っていたのか、知っていたとすれば、どういう態度を採ったのかといった、具体的なことは何も話さないのである。
無論、これも「権力者には逆らえなかった」という、ごく当たり前の話ではあったのだろうが、しかし、彼ら俳優たちとは違って、タランティーノの場合は、なにしろ俳優を守るべき立場にある「監督」だったのだから、その無力感に打ちのめされた深さも、格段に違っていよう。
タランティーノの映画では、善人も殺されるかわりに、悪党も復讐をうけて惨殺される作品が多い。それも、重苦しい復讐ではなく、痛快な復讐というのが多いから、多くのファンはその「復讐劇」を楽しめるのだろうが、ワインスタインの醜行を知った後のタランティーノが、そうしたシーンを、どういう気持ちで撮っていたのかと考えれば、思い半ばに過ぎるものがある。
実際、前記のレビュー「『パルプ・フィクション』の何がそんなに面白いのか?:タランティーノ的趣味嗜好」で、私がいったんはタランティーノを見限った理由を次のように書いている。
『キル・ビル2』は、私の記憶によれば、たしか「昔愛した男」への復讐劇だったと思うのだが、この頃すでに、タランティーノがワインシュタインの醜行を知っていたのだとしたら、この復讐劇は、じつはワインシュタインのことが念頭にあってのものだとしても、何の不思議もない。実際には何もできないことの、代償行為だったかも知れない、ということだ。
しかしである、同作の主演はユサ・サーマンなのだから、まさか彼女がワインシュタインの毒牙にかかった後に、このような役を演じさせるとは、さすがに思えない。それはあまりに酷だからだ。
しかしまた、この後に、サーマンがワインスタインの毒牙にかかったのだとしたら、タランティーノは、これをどう感じただろうか?
もしかして、ワインスタインは『キル・ビル2』に描かれた復讐劇を、自分への当てつけではないかと察知して、その報復として、主演女優であるサーマンを手にかけたのだとすれば、タランティーノの後悔は、想像するにあまりあるものであって当然だし、もう映画を撮りたくないという気持ちになっても、何の不思議もないはずなのだ。
まあ、実際のところ、タランティーノは、2004年の『キル・ビル2』の後にも、いくつかの意欲的な作品を撮っているし、サーマンが被害に遭った時期については、私はよく知らない。
だから、『キル・ビル2』とタランティーノが引退を語り出した時期には、10年ほどの開きがあるため、直接の因果関係は認め難いとも考えられるのかも知れない。
だが、逆に言えば、この間には、たった10年の開きしかなく、その間に何かあった蓋然性は十分にある、とも言えるのではないだろうか。
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無論、私は、ワインスタインを批判告発できなかったタランティーノを批判しようとは思わないし、この「タランティーノ擁護」のための映画である本作を撮った関係者や出演者を責めようとも思わない。自分が同じ立場だったら、きっと沈黙していただろうと、容易に想像できるからである。
ただ、ここで付け加えておかなければならないのは、映画の中の「正義」や「復讐」や「かっこよさ(クールさ)」というものは、所詮「フィクションでしかない」という、冷厳な事実である。
映画を心から愛した、タランティーノをはじめとした映画関係者は、結局のところ、ワインシュタインの権力の前に、膝を屈し、沈黙するしかなかった。映画の中のように、最後はワインシュタインの部屋へ乗り込んで、派手にぶち殺すなんてことは、決してできなかった。
それをやったのは、結局のところ、「現実」を扱うジャーナリストたちだったのである。
だからと言って、私は「フィクションの力」を否定しようとは思わない。それが人に「正しい力」を授けることがある、というのも、それはそれで否定しがたい事実だからだ。
だが、その一方「フィクション」が「現実逃避の具」でしかない場合のほうが、圧倒的に多いというのも事実で、私たちはその重い現実の方も、忘れるわけにはいかないだろう。
映画ファンが「映画の力」といった「夢」に無条件に酔った時に、過酷な現実は、その容赦ない牙を剥くのだということを、映画に限らず「フィクション」を愛する者なればこそ、肝に銘じておかなければならないのではないだろうか。
つまり、「タランティーノ最高!」とか「映画は素晴らしい」と褒めているばかりでは、こうした不幸は繰り返されるしかない。
だから、どんなジャンルにおいても「健全な批評・批判」無くしては、私たちは「虚妄に酔う」ことしか出来なくなって、いつでも大きな被害を出した後に、うなだれて「残念です」などと、他人事のように言うことを繰り返すしかなくなるのだ。
「華やかな世界の裏側には、かならず深い闇がある」というのは、昔から言われてきたことであり、これは何もワインスタインひとりの問題ではないし、彼を罰することで片付くような問題ではない。
事実、日本でも「ジャニーズ問題」が長らく放置黙認されてきたという事実を、私たちは今さらながらに思い知らされてもいる。
だから私たちは、このできれば見たくもない現実を、それでも深く噛み締めて、いざという時には声を上げる覚悟を持たなくてはならないはずなのだ。
やられっぱなしで良いわけがないのである。
(2023年9月4日)
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