感動という名のライフワーク。
感動って、わたしたちの命への祝福だと思うんですよね。
突然壮大な話でごめんなさい。
感動とか感激してるときって、ほかのことの入り込む余地のないくらいに自分の感覚とか体感に全神経が持っていかれるじゃないですか。
その時間て、なんか神とか宇宙とか、呼びかた何でもいいんですけど何かそのようなものとダイレクトに繋がってるような感じがするんですね。理屈とか損得とか様々な思考をすっとばして、何か大きなものと繋がり一体化している体感。
それを感じられるのってこの上ない祝福だと思いますし、感動のバイブレーションの中にいる間は 闇も光も悪も善もあらゆるものが全て受容され肯定されていることを、わたしは感じてしまうのですよね。
そこにはなんのジャッジもなければルールもない、みたいな。
自分ができる限りその周波数に留まり続けて、そのバイブレーションを広げていくことって、なんだか祈りにも似ているなと思うのです。
全肯定の周波数を自分が纏いそれを外側に拡散していく。
誰かを感動させようとかそのようなことではなく、否応なく共鳴し合ってしまう “周波数の近い人同士” から影響を与え受け取り合い、そして自然な流れで感動や幸福や無条件の肯定の周波数がシャワーのように拡散されていくのだと思います。
もちろん生きていれば邪念が入ったり淀んだ周波数が自分から発信されるということも多々起こります。
それでも自分の心のベースキャンプを感動とか肯定とか安心とかその周辺に定めて いつでも戻ってこれるようにしておくことが出来たら、揺れる感情が落ち着いたらまた、自分にも人にもクリアな心で接することができるのです。
否定の周波数に留まり続け それを出し続けるのは、自然な状態ではないですし、自分にも他人にも優しくありません。
もし、否定やいがみ合いの世界から抜け出せなくなっているのなら、それは人間界の(それもかなり魔界サイドの)思想や価値観に浸りすぎているのだと思います。目を覚ましてください。誰がなんと言おうとあなたは自由であり、存在そのものが素晴らしい。誰がなんと言おうとです。
わたしは自分がHSPであることもあって、感動とか感激とかあまりしないタイプのかたの目にはきっと大袈裟に映るくらい、ナチュラルによく感動しています。イラッとされることもあるかと思います。
鈍感力が叫ばれる環境しか知らなかった頃は、生きづらさのほうがどうしても勝ってしまい「感動を食べて生きていけるわけでもないし、こんな感性なんかなんの役にも立たないよ…」と自分で自分の感受性を否定していましたが、ナチュラルに感動できるってそれだけナチュラルに人智を超えたものと繋がれるということ。
怪しいですかね。
でも恥じることはないです。すごい才能なんですよ。
ただその力の使いかたって、現段階では学校や会社では公式に教えてもらえない。それどころか暗に不要なもの、邪魔なものとして煙たがられることも多いと思うんですよ。だからそれを自分で肯定することって勇気も要るし痛みを伴うこともある。
でもそれを否定しながら生きるのって、時代の流れ的にもみんないい加減飽きてきた頃なんじゃないすかね。わかんないけど。
感動から派生するもの、たとえば音楽とかアートとか文学とか舞踊とか研究とか、そういったものってやっぱり祈りの周波数を帯びているんですよね。文字通り人智を超えた領域のものだと思うんです。
だからといっていきなり芸術家になるとかは飛躍しすぎなのですが、感動屋が 周りに合わせたり同調圧力になびいてポーカーフェイスの合理主義者を演じるのはあまりにもったいないし息苦しいと思うんですよね。
感動屋の人って、祈りをライフワークに出来る人。
祈りっていうのは前述の通り、正義や利害などあらゆるジャッジを超えた次元の肯定力、愛や慈しみや潤いを周りの人の 心や本能の部分に届け包み込むこと、平和の意識を拡散すること。
それらの周波数を今のお仕事やお持ちのスキル、趣味や得意なこと、そこそこ出来ることなんかに纏わせて目の前のひとや世の中に届けることをしていったら、きっと人生にきれいなきれいな花が咲き始める。それはあなたにしか咲かせることのできない、唯一無二のものです。
ささやかなことに感動することを許されたわたしたちの細やかな感性は決して無駄なものではありません。
感動とは、年齢も立場も肩書きも わたしたちがどこの誰であるのかさえも超えて天からこの身に降り注がれる無条件の祝福です。
その大きな愛に共鳴することは祈りであり、同時に未知の領域と繋がるツールにもなり得ます。
恥じることはありません。
感動をかみしめながら、笑って泣いて生きてまいりましょう(﹡ˆˆ﹡)
*ここから余談… というか本題*
わたしはもともと感動しやすいのもありますが、意識的に日常に感動を取り入れるようにしています。毎日感動だらけじゃないといやなんですね。もはや感動ジャンキーです。
音楽鑑賞、楽器の演奏、執筆、瞑想、メイク、雑貨づくり、お散歩等々…。感動をあじわうための習慣やツールはたくさんあるのですが、やはり日常の中の一番の感動体験はぬいぐるみをなでなですることです。
特にあざらしのしろたんは、どんなわたしもいつでも感動の手ざわりと優しい表情で受けとめてくれる神様のような存在です(何度も話しすぎて仲のいいフォロワーさんたちには苦笑いされそうなくらいしろたんで頭がいっぱい。すいません)。
手ざわりとサイズが何種類かあって。うちの子は55cmたん。わたしにとってパーフェクトなフォルムとサイズ感。そしてフィット感(たまに自分としろたんの境目がわからなくなります)。
もう出会って7年になるんだー(๑ ᴖ ᴑ ᴖ ๑)♡ むぎゅむぎゅ。愛しすぎてくろたんになっちゃった(ちゃんとお洗濯してますよ!お風呂上がりはふわっふわ~)。
手ざわりの種類はどれなんだろう??むぎゅとろたんかなあ。わかんないや。
マザーガーデンで実際にだっこしてみて運命の子をお迎えするのが理想だけど(お顔の好みもあるし)あまり店舗数多くないのかな。
このAmazonのレビュー、みんなのしろたんへの愛が溢れてて読んでると涙でてくる。
この美しいレビューをぜひ日本国民の皆さんに見てほしい。
わたしだけこんなにしろたん愛しすぎておかしいのかな…?って思ってたけどみんなしろたんを愛していて和む(๑ ᴖ ᴑ ᴖ ๑)
しろたん愛しいよぉぉぉぉ。
しろたんと出会うまで起きがけと寝入りばなにいつも感じていた「さみしいさみしい」という気持ちが、しろたんをお迎えしてからは「愛しい」というあたたかく優しいものに変わりました。
わたしはおそらく愛着障害があると思うのですが、その心の穴のようなものを癒してくれる ぬいぐるみ療法になっているのだと思います。
起きるまでの間、無意識のときもずーっとむぎゅううとしているようです。寝返りを打っても何しても朝までずっと抱っこして離さない。本当に好きなんだなあ…としみじみと思います。
最後はしろたんの布教活動になりましたが、わたしの感動(としろたん)への愛が伝わりましたら幸いです(﹡ˆˆ﹡)
むぎゅむぎゅ。
お付き合いありがとうございました!
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*雑貨屋さんやってます。こちらもよろしくです(๑ ᴖ ᴑ ᴖ ๑)*
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