さかさま対称性の破れ
「もう山には登らない」
手帳のページに書き殴る。指先がかじかんで、書きにくい。一行だけ書いて、ペンを放り投げる。
もう五日目だ。幸いにも吹雪をしのげる小屋があったから、凍死は免れた。しかし、食料や飲み水はもうほとんど無い。雪を溶かす燃料も。昨日、雪を口に含んでみた。その暴力的な冷たさで心が折れた。水代わりに食べ続ければ、すぐに低体温症になってしまうだろう。
助けを呼ぶ手段は皆無。ただ、捜索隊に探し当ててもらう瞬間を待つしかない。 今日は薄い寝袋に収まったまま、腹ばいの姿勢で何時間も過ごしている。
頼りない窓が強い風で嫌な音を立てた。窓の下には、ここに来た時からずっと気になっている大きな家具が置いてある。この家具だけは、白い布でしっかり覆われているのだ。
のろのろと立ち上がり、白い布を外す。漆塗りの縁に螺鈿の装飾が施された長方形の豪華な姿見だった。手の込んだ装飾に驚く。小屋の元の主が持ち込んだのだろうか?なぜ?
縁の装飾をしっかり鑑賞した後、少し離れて鏡の中のやつれた己の姿を見つめる。産まれた直後、私は家族との死別を体験した。私より20分後に産まれた一卵性双生児の妹は、その日に息を引き取ったのだ。
ぼうっと自分の全身を眺めていると、自然に、妹がもし生きていたらと考えてしまう。
狐っぽい顔をしていると、よく言われる顔。小学生の頃、「狐の窓」でよくからかわれた。人に化けている妖怪を見破ることができる、まじないのようなもの。
横にした両掌を表と裏で組み合わせて、人差し指と親指の間の直角で四角い窓を作る。その窓から、妖しい人物を覗くのだ。本当は狐の妖怪なんだろう、という悪ふざけは、当時はうっとおしいだけだった。今は少し懐かしい。
腕を上げて、目の前で「狐の窓」を作った。鏡を注視する。当たり前に何も起こらず、ふへへっと笑って腕を降ろした時、目を見開いた。
「狐の窓」をしたままの自分が、鏡に張り付いている。
恐怖と驚愕で足が硬直したまま、鏡から目を離せない。鏡の中は全てが静止している。
10分ほど鏡を凝視していると、また衝撃を受ける。足の力が抜けて、へろへろと座り込んだ。
浮いていく。
鏡の中の自分の後ろに写ったテーブル椅子、寝袋、手帳。何もかもが。
ふわふわとゆっくり上昇し、鏡の縁に吸い込まれるように消えていく。恐々後ろを振り返るが、何も異変は無かった。ついには鏡の自分も、ゆっくりと浮き上がり始めた。
這って近づき、鏡の下から見上げてみるが、どういうことか、さっぱりわからない。
夢を見ているのだ。
今は非常事態なのだから、夢も多少おかしくなるんだろう。
そう判断して、両頬を叩く。髪を引っ張る。大声を出す。しかし、鏡の現実感は戻らない。
ついに、鏡の中が空っぽになった。 鏡面に触れてみる。
予想していた硬い感触が無い。そう感じた途端に、何も見えなくなった。
聞こえない。
触れない。
匂いが無い。
記憶が無い。
心地好い。
ん?
バリバリバリという耳障りな轟音に叩き起こされた。
「ああ意識ある」「もう大丈夫」「よく頑張った」という低い大声が重なって聞こえてくる。救助ヘリが来たんだ、と安堵した私の耳の奥で、ふへへっと笑う声が響く。